西国3番 粉河寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国3番 風猛山 粉河寺
紀伊国那賀郡粉河村(和歌山県紀の川市粉河)

西国3番粉河寺の納経

西国3番粉河寺は古くから生身観音の霊地として知られ、すでに平安時代には貴族から庶民に至る多くの参詣者を集めていました。かつては高野山・根来寺に次ぐ紀北の大寺院として繁栄していたといいます。

『粉河寺縁起絵巻』(国宝)には次のような開創にまつわる伝承が描かれています。

宝亀元年(770)猟師の大友孔子古(くじこ)が山中で光明を発する霊地を見つけ、発心して草庵を結びました。

ある日、一人の童行者が訪れて一夜の宿を借りました。そのお礼に草庵に仏像を安置したいという孔子古の願いを叶えてやろうと言い、七日七夜かけて等身大の千手観音の像を刻んで姿を消しました。孔子古は行者が観世音菩薩の化身であることを悟り、殺生をやめて深く仏法に帰依しました。

その後、河内国の長者・佐太夫のところに童行者が訪れ、長患いをしていた一人娘のために千手陀羅尼を誦して祈祷したところ、病が癒えました。喜んだ長者はお礼にさまざまな宝物を贈ろうとしましたが、娘が捧げた箸箱と袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡粉河の者だ」とのみ告げて立ち去りました。

翌年の春、長者一家が粉河を探して紀伊国を訪れたところ、流れる水が米の研ぎ汁のように白い川を見つけました。これこそ粉河であると確信し、川を遡ったところ、孔子古の草庵にたどり着きました。扉を開くと千手観音の像が安置され、娘が捧げた箸箱と袴を持っていたため、あの童行者が千手観音の化身であったことを悟ったのでした。そこで長者は孔子古と協力し、伽藍を建立したと伝えられます。

以来、観音信仰の霊場として広く知られるようになり、『枕草子』や『梁塵秘抄』などにもその名が見えます。永承3年(1048)関白・藤原頼通の参詣をはじめ、貴賤の多くの人々が参詣しました。

南北朝時代以降は広大な寺領と多くの僧兵を擁し、最盛期には550もの坊舎・子院を誇ったといいます。しかし天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めで堂塔伽藍を焼失し、太閤検地で寺領も没収されました。

江戸時代は紀州徳川家の保護を受け、特に8代藩主・徳川重倫は深く帰依したといいます。本堂西側の千手堂には歴代藩主の位牌が安置されています。

たびたび火災と再建を繰り返しており、現在の伽藍は江戸時代中期以降の再建ですが、重要文化財の本堂・大門・千手堂などは18世紀のもので、太郎助も同じ建物を見ているはずです。同じく重要文化財は天保3年(1832)の建立なので、太郎助の参拝の8年後ということになります。

目次

粉河寺の納経

西国3番粉河寺の納経

順拝帳を見ると、墨書部分は右から順に

「奉納経」
「南紀粉河寺大悲殿」
「両役者(?)」
「文政八酉年五月二十三日」

三行目が判読しづらいのですが、「両役者」だろうと思います。

中央の宝印は円に千手観音の種字「キリーク」。右上は「西國第三番」、左下は「粉河寺印」。

粉河寺はもともと三井寺(聖護院)の末寺でしたが、元和2年(1616)延暦寺の末寺となりました。現在は独立して粉河観音宗の総本山となっています。

語りだす絵巻―「粉河寺縁起絵巻」「信貴山縁起絵巻」「掃墨物語絵巻」論語りだす絵巻―「粉河寺縁起絵巻」「信貴山縁起絵巻」「掃墨物語絵巻」論

粉河寺の概要

風猛山 粉河寺(こかわでら)
現名称:風猛山 粉河寺
御本尊:千手千眼観世音菩薩
創建年代:宝亀元年(770)
開基:大友孔子古
所在地:紀伊国名那賀郡粉河村(和歌山県紀の川市粉河)
宗派等:粉河観音宗総本山(江戸時代は天台宗延暦寺末)

文政8年『神社仏閣順拝帳』
紀三井寺 → 粉河寺 → 高野山
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