次に文字部分をスタンプにした御朱印(納経印)について考えてみたいと思います。昔であれば版木押しもしくは印判というのが適切でしょうか。
スタンプ(版木押し)の御朱印(納経印)
昭和の終わり頃からの一時期、四国八十八ヶ所4番札所の大日寺が、墨書部分をスタンプにしたことがあります。その後、いろいろ意見や要望があって、現在では墨書に戻したようです。
私が初めて御朱印をいただいたのは平成元年4月、四国八十八ヶ所を1番霊山寺からまわったときで、4番大日寺の御朱印は4番目にいただいた御朱印ということになります。
当然、その時も文字の部分はスタンプで、その時に、昔は筆の字の部分も判(スタンプ)だったので、それを復活したのだと教えてもらいました。つまり、生まれて初めて御朱印をいただいた日に、昔は墨書部分が判(スタンプ)だったということを認識したわけです。
その翌々日には番外・杖杉庵で、今ではなくなってしまった弘法大師と衛門三郎の邂逅の場面を描いた御朱印をいただきましたので、スタンプの御朱印もいいものだなあということが刷り込まれました。なので、スタンプの御朱印にはまったく抵抗がありません。
まあ、このブログをご覧の方であれば、ブログ開始当初から紹介している文政8年の『神社仏閣順拝帳』で、四国八十八ヶ所のかなりの札所が版木押しであるのをご存じでしょうから、今さらスタンプの御朱印が「近年」のものとは思わないでしょう。
さて、私の手許にある納経帳のうち、最も古いのは享保10~12年(1725~27)の六十六部廻国行者のものと思われる納経帳です。この納経帳にも、すでに墨書部を版木押し、つまりスタンプにした納経印が4ヶ所あります。
享保11年(1726)、四国73番出釈迦寺。
享保12年(1727)、島根県大田市の南八幡宮。ここは六十六部廻国行者のための納経鉄塔があることで知られており、室町時代から六十六部が巡拝したところです。以上を見れば、納経帳が出現した時代あたりまで遡ることがわかると思います。
以下、時代を下っていきますが、四国八十八ヶ所については紹介するまでもないので、このブログの文政8年の『順拝帳』や、古今御朱印研究室の天保10年の納経帳、明治38年の納経帳などを見ていただければと思います。
こちらは文化7年(1810)秩父27番月影堂(大渕寺)。この納経帳を見ると、秩父三十四観音の場合、大正~昭和初期の集印帖のように墨書なしで朱印のみという札所がいくつかあります。墨書よりも朱印を重視していたと考えられ、墨書重視(墨書でなければ版木)の西国や四国とは違っています。その中で、版木押しというのは珍しい例です。
文政5年(1822)伊勢神宮の内宮法楽舎の納経印。法楽舎は弘安の役に際し、亀山上皇の勅願によって設けられたもので、真言密教の僧侶が奉仕していました。皇大神宮の納経はこちらで行っていたようです。
弘化4年(1847)厳島神社、納経は大願寺。
同年、岐阜県揖斐川町の月桂院。これを納経帳に押すのは大変だっただろうと思います。
明治16年(1883)熱田神宮。
同年、和歌山市の木本八幡宮。社号のみ版木押しの珍しい例です。
明治29年(1896)東寺御影堂。
折り本式の集印帖が登場すると、朱印のみというのが主流になるため、わざわざ墨書部分をスタンプにする例は少なくなりますが、なくなったわけではありません。
昭和10年頃(1935)、西国1番青岸渡寺。江戸時代や明治時代の西国三十三所の納経帳はたいてい墨書で、まず版木押しの納経印を見ることはありませんが、折り本式の集印帖ではスタンプを用いている例が見られます。
以上のように、スタンプ=版木押しの御朱印・納経印についても、江戸時代から明治、昭和に至るまで継続して存在していました。決して「近年」のものというわけでないことは、議論の余地がないだろうと思います。
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次回は刷り物(別紙に版木押し=印刷物)の御朱印です。
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