平成5年、初めての信州善光寺参拝でいただいた御朱印です。幅の狭い善光寺の朱印帳にいただいたので、少々窮屈な感じがします。
定額山善光寺は「遠くとも一度は詣れ善光寺」「牛にひかれて善光寺参り」の伝承があるように、皇室・公家・武将から庶民に至るまで、宗派を問わず広く信仰を集めてきました。現在でも、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願によって護持・運営されていますが、善光寺そのものは「四門四宗」「八宗兼学」としていずれの宗派にも属していません。
御本尊の一光三尊の阿弥陀如来(善光寺如来)は、百済の聖明王より贈られた日本最古の仏像という伝承があります。物部氏によって浪速の堀江に投げ捨てられた後、本田善光が信濃に持ち帰ってお祀りし、皇極天皇の勅願によって伽藍が建立されたと伝えられています。
古くから広く信仰を集め、全国に同名の寺院や善光寺如来を祀る寺院が多数あります。
これは御詠歌の御朱印。
こちらは平成25年、東京両国の回向院で行われた出開帳の限定御朱印。専用の印を作ったそうで、中央の印は阿弥陀如来の種字「キリーク」と観世音菩薩の種字「サ」、勢至菩薩の種字「サク」で阿弥陀三尊を表しています。右上の印は「出開帳」、左下は「善光寺 回向院」。墨書は善光寺でいただくものと同じです。
さて、信州善光寺の御朱印ですが、現代の一般的な寺院の御朱印からすると、少々変わった構成になっています。
通常、寺院の御朱印の場合、中央の墨書は御本尊、または御本尊を祀るお堂の名称になります。また、中央の朱印は、御本尊の種字(梵字)や「仏法僧宝」の三宝印が主流です。また、左下にお寺の名前を入れるのが一般的です。
これは甲斐善光寺の御朱印ですが、一般的な寺院の御朱印とほぼ同じ形式です。左下の寺号が墨書ではなく朱印なのが珍しいぐらいでしょうか。
こちらは、平成24年にいただいた信州善光寺の御朱印。
墨書は右から
「奉拝」
「善光寺」
「参拝年月日」「堂司」
中央の朱印は「善光寺本堂」、右上は白抜きで「定額山」、左下が同じく白抜きで「奉行」となっています。非常に珍しい構成で、同様の形式は飯田市の元善光寺ぐらいではないかと思います。
この信州善光寺の御朱印の形式ですが、実は200年以上前からほとんど変わっていないのです。確認できるのが200年前であって、いつからこの形式になったのかはわかりません。
文化10年(1813年)の善光寺の納経印(文化10年西国三十三所の納経帳)。「奉拝」のかわりに「奉納経」となっているのと、中央の朱印が45度傾いている以外はほぼ同じです。因みに「譱」というのは「言+羊+言」で「善」の正字。画数が多いため、昔から略字を使うのが普通になって定着しているということのようです。私も、この納経印を見るまで「善」が略字だとは知りませんでした。
こちらは約50年後、慶応3年(1867)の納経帳。旧暦8月末というと「ええじゃないか」が始まった頃で、12月には大政奉還が行われています。現代と同じく「奉納経」ではなく「奉拝」になっています。この時期に「奉拝」を使っているのはきわめて珍しいはずです。中央の朱印は、やはり45度傾けています。
折り本式の集印帖が登場してからも伝統は守られています。
昭和4年(1929)の集印帖より。中央の印は45度傾けて◆にするのが本来の形ではないでしょうか。そのほうが見栄えがいいというか、どうも、現在の■という押し方だと野暮ったく感じられます。まあ、大正の頃は■で押していたようなのですが。
大正9年(1920)の集印帖より。中央の墨書が「定額山善光寺」と山号が入っているのも珍しいです。
昭和10年(1935)の集印帖より。大正から戦前、折り本式の集印帖が普及すると、押印のみで墨書なしというのが主流になります。この時期、善光寺でも墨書なしの御朱印が見られますが、その場合でも「定額山」「善光寺本堂」「奉行」という印の組み合わせは変わりませんでした。
明治から昭和の初めころまでは、他にもわずかに江戸時代以来の伝統的な形式を守る寺院が残っていたようですが、現代まで残っているところはほぼ存在しないのではないでしょうか。
ぜひこれからも守り伝えていっていただきたいものです。
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