西国5番 葛井寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国5番 紫雲山 葛井寺
河内国丹南郡藤井寺村(大阪府藤井寺市藤井寺)

西国5番葛井寺の納経

江戸時代の西国三十三所巡礼においては、第4番施福寺を参拝した後、天王寺(現・大阪市天王寺区)・平野郷町(現・大阪市平野区)を経由して5番葛井寺を参拝し、古市(現・羽曳野市)から竹内街道に入り、6番壺阪寺に向かうのが順路とされていたそうで、太郎助もその順路をたどったようです。

葛井寺は紫雲山三宝院剛琳寺と称し、また藤井寺ともいいます。

寺伝によれば、葛井寺は神亀2年(725)聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建し、平安時代に入り、平城天皇の御願により阿保親王が再興したとされていますが、通説では百済系渡来人の葛井連(ふじいのむらじ)が氏寺として7世紀後半に建立したものであろうと考えられています。

御本尊の千手観世音菩薩坐像は大阪府下唯一の天平仏で、国宝に指定されています。実際に千本の手を持つ半丈六(高さ約1.5m)の脱活乾漆造で、寺伝では稽文会・稽首勲の作とされます。

葛井氏は百済の近仇首王の孫・辰孫王の後裔で、欽明天皇の御代に王辰爾の甥・胆津が白猪史(しらいのふひと)の姓を賜り、さらに養老4年(720)道麿が葛井連を賜姓されました。

因みに阿保親王の母は葛井連の出身であり、また子息の在原業平は葛井寺の奥の院(現存せず)を建立したと伝えられています。

永長元年(1096)大和の藤井安基が再興したことから藤井寺と呼ばれるようになったともいいます。

平安時代後半には観音霊場として知られるようになり、正平2年(1347)の楠木正行と細川顕氏による藤井寺合戦や明応2年(1493)の畠山基家と政長の戦いの兵火にかかり、さらに永正7年(1510)の大地震で壊滅的な打撃を受けました。現在の伽藍はその後の再建によるものです。

江戸時代は豊臣秀頼や徳川家の外護により寺運は栄え、西国三十三所の札所として広く信仰を集めました。慶長6年(1601)豊臣秀頼によって建立された四脚門(国の重要文化財)をはじめ、本堂・南大門なども太郎助が参拝した当時から残っているようです。

葛井寺の納経

西国5番葛井寺の納経

順拝帳を見ると、墨書は右から順に

「奉納経」
「大悲尊宝殿」
「酉五月廿八日」「正別当」

中央の朱印は判読できないのですが、「仏法僧宝」の三宝印かも知れません。右上は「西國第五番 河州葛井寺」、左下は判読できません。

週刊 原寸大 日本の仏像 No.45 葛井寺 千手観音 と獅子窟寺・薬師如来週刊 原寸大 日本の仏像 No.45 葛井寺 千手観音 と獅子窟寺・薬師如来

葛井寺の概要

紫雲山 葛井寺(ふじいでら)
現名称:紫雲山 葛井寺
別名:紫雲山 三宝院 剛琳寺、藤井寺
御本尊:千手観世音菩薩
創建年代:伝・神亀2年(725)
開基:伝・行基菩薩
河内国丹南郡藤井寺村(大阪府藤井寺市藤井寺)
宗派等:真言宗御室派
http://www.geocities.jp/saikoku33_5/

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