「納経」に関する常識を疑ってみる

平成元年納経帳

御朱印の起源が「納経帳」であることはよく知られていることです。「御朱印はもともと写経を奉納した証しだった」というのも、納経帳を起源とすることによります。

ところが、この「納経」という言葉自体に、いろいろ検討を要する問題があるのです。

一部には、本来御朱印は納経の証しなのだから、お寺で御朱印をいただく際には納経=写経の奉納をしなければならないと主張する人がいますし、写経を奉納しなければ御朱印を授与しないというお寺もあります。

これに対して、私は御朱印拝受に写経の奉納を必須にすべきでないと考えます。

写経の奉納自体はいいことですから、写経を奉納するのは自由に、むしろ積極的にすればいいと思います。また、寺院の方針として写経を義務づけるのも、いいこととは思いませんが、それぞれの考え方で、仕方がないことでしょう。

しかし、御朱印が「納経の証し」であったから写経を奉納しなければならないという歴史的根拠を主張されると、それは違うと考えるわけです。なぜなら、庶民に納経帳が普及した時代、「納経=写経の奉納」ではなくなっており、むしろ納経帳に記帳押印してもらうことを「納経」と呼ぶようになっていたと考えられるからです。

すでに室町時代には納札で納経に代えることがあった

私も御朱印を集め始めた当初は、「納経=写経の奉納」ということを漠然と信じていました。ところが、青梅市の野上春日神社に参拝した際、天文7年(1538)の六十六部の納札を見せていただいたことをきっかけに、ことはそう単純ではないのではないかと考えるようになりました。

天文7年六十六部納経札

天文7年(1538)六十六部の納経札
野上春日神社(青梅市)蔵

六十六部廻国聖(略して六十六部、または六部ともいう)については何度か触れてきましたが、日本全国六十六ヶ国を巡り、その国を代表する寺社一ヶ所を選んで法華経を納経するという行者です。六十六部が納経の証しとして受け取った納経請取状が江戸時代になって納経帳に変わり、それが一般庶民にも広がったのが今日の御朱印の起源です。

サイズを調べるのは失念していましたが、青銅製の大きなもので、中央に釈迦如来の種字「バク」と「奉納法華大乗妙文六十六部聖傳覚」、右に「十羅刹女」「武州杣保野上郷住」、左に「三十番神」「天文七年今月吉日」と記されています。野上郷に住んでいた六十六部の伝覚が、六十六廻国巡礼の始めか終わりに地元の氏神である春日神社に奉納したものと思われます。

六十六部の青銅の納札が存在するのは知っていましたが、これほど立派なものだというのは見るまで思ってもいませんでした。六十六部が納経するときは、青銅の経筒に法華経を納めていたのですが、わざわざ青銅の経筒と納札の両方を奉納したとは思えません。納札の銘から考えても、青銅の納札は写経を納めた経筒の代用品と考えるのが妥当でしょう。

山梨県考古学協会会長の田代孝氏は、現存する六十六部の奉納した写経が非常に少ないことから考えて、六十六部はすべての寺社で納経(写経の奉納)をしたわけではなく、あらかじめ決めておいた一部の寺社でのみ納経し、残りは納札の奉納や読経などで代えることが多かったのではないかと指摘されています。

つまり、すでに室町時代末には納札の奉納で代用する慣例があったと考えられるわけです。納経帳が登場する17世紀末より百数十年も前のことです。

納経の意味はタイムカプセルだった

写経

一般に納経というと、現代の精神修養としての写経や薬師寺の写経供養のイメージが強く、また『平家納経』を思い浮かべる人も多いようです。一部の御朱印本やネット上のサイトに、御朱印は「お寺で」写経をして奉納した証しなどと書いているのを見ることがあるのも、そういう現代のイメージに引きずられたのが原因だろうと思います。

しかし、現代の御朱印のルーツとなる六十六部の納経は、写経を経筒に納め、土中に埋納する「埋経」でした。

仏教には、お釈迦様が亡くなった後1000年ないし500年は正法といって正しい教えが残り、修行によって悟りを開く人がいる時代、次の1000年は像法といって、正しい教えは残り、修行する人もいるが、悟りを開く人はいない時代、それ以降は末法といって、釈尊の正しい教えが滅尽する時代が来るという歴史観があります。そして、56億7千万年の後、弥勒菩薩が下生し、悟りを開いて人々を救済するとされます。

弥勒様が下生するときに備えて経典を残すため、いわばタイムカプセルとして土中に写経を埋納したのが「埋経」で、その功徳によって弥勒様が下生する時代に自分も生まれ変わる、という願いがありました。

遙か未来まで残すことが目的ですから、写経は金属製の経筒に納め、さらに陶製や金属製の外容器に収められました。そして、鏡や銭貨、玉、刀などの宝物とともに埋納し、塚を築いたのが「経塚」です。有名なものには、寛弘4年(1007)藤原道長が大和国金峯山に造営した金峯山経塚などがあります。

経筒と外容器

写経を納めた経筒と外容器、副葬品の鏡
国立東京博物館蔵

六十六部廻国とは、これを日本全国六十六ヶ国でしようという修行であって、単に神社仏閣に写経を納めるというものではなかったのです。ただ、六十六ヶ所で埋経するというのは大変なので、次第に寺社に設けられた専用の納経鉄塔に納めたり、寺社の担当者に納めたりというようになりました。

これがさらに略式になって、納札の奉納で代えられるようになりました。納札も当初は金属製でしたが、後には紙製が一般的になります。

因みに、古い時代は納札を寺社の柱や壁に打ち付けていました。四国や西国の札所を参ることを「札を打つ」というのは、その名残です。また、板の納札を打ち付ける代わりに、紙のお札を貼り付けるようになったのが千社札の始まりです。そのため、千社札を貼るときには、御朱印をいただくのが正式な作法だそうです。

納経帳への記帳押印を「納経」という

霊山寺・極楽寺の納経

四国1番霊山寺・2番極楽寺の納経(平成元年)

写経を奉納する代わりに納札を納め、納経請取状を受け取ったり、納経帳に記帳押印してもらっていたということは、それによって納経(写経を奉納)したと見做す、あるいは同等の功徳があるという観念があったことを伺わせます。

それがさらに進んで、納経帳へ記帳押印すること自体を「納経」というようになったのでしょう。

今でも四国八十八ヶ所では、納経帳に記帳押印してもらうことを「納経する」といいます。また、記帳押印された印影と墨書そのもの、いわゆる御朱印も「納経」と呼びますし、今も「奉拝」ではなく「奉納経」と書きます。

これは、札所に参拝し、納札を納め、納経帳に記帳押印してもらうことで「納経」したのと同じになる、それ自体が「納経」であるという観念の反映だろうと考えられます。

例えば『大般若経』各巻の冒頭のみを儀礼的に読んで、『大般若経』全巻を読んだのと同じ功徳があるとする「大般若経転読」とか、四国八十八ヶ所の砂を踏むことにより、四国八十八ヶ所を巡拝したのと同じ功徳があるとする「お砂踏み」などがありますが、そういったものと同じような感覚といえるでしょう。

ただ、必ずしも信仰として確立していたわけでなかったことから、納経もしないのに「奉納経」と書くのはおかしいという考え方も起こり、「奉拝礼」「奉拝」と書く寺院が現れたのではないかと思われます。

善光寺・武水別神社

善光寺・武水別神社の納経(慶応3年)
「奉拝」とある初期の例

つまり、庶民に納経帳が広がる以前から、納経帳への記帳押印に写経の奉納は必須ではなかったわけです。むしろ、写経の奉納をしなくても、それと同等の功徳があることが、納経帳の普及を促した理由の一つかもしれません。

そういう意味で、歴史的根拠を理由として、写経を納めなければ御朱印を授与しないということには賛成できないわけです。御朱印は仏縁の入口ですから、わざわざそこでハードルを高くするのは無意味どころか有害でしょう。

納経帳を棺に入れる習慣は意外に新しい?

ところで、私は御朱印の歴史を調べるために江戸時代や明治時代の納経帳を収集しているのですが、ときどき「納経帳って、そんなに残っているんですか? 亡くなったときに棺に入れるんじゃないんですか?」と聞かれることがあります。

文政4年(1821)の納経帳

文政4年(1821)四国八十八ヶ所の納経帳

閻魔様に納経帳を見せると、地獄に行かずに極楽往生できる、という話は、私も平成元年に初めて四国八十八ヶ所を巡拝したときに教えてもらいました。以来、私も漠然とそういうものだと信じていて、自分も死んだときは四国八十八ヶ所の納経帳だけは入れてもらおうと思っていました。

ところが、実際には江戸時代や明治時代の納経帳が大量に残っていて、古書店やネットオークションなどにも出回っています。今も蔵の奥などで眠っているものや、戦災その他で焼失したり、引っ越しの際などに処分されたであろうものを含めると、相当な数になるだろうと思います。

そこではたと気づいたのですが、納経帳を棺に納めるという習慣は、案外新しいのではないでしょうか。

納経帳を棺に入れるという発想は、火葬を前提にしていると思われます。朱印を押した白衣を死に装束にするというのは土葬でもいいでしょうが、土葬の棺に納経帳を入れるというのは、ちょっと考えられません。

今でこそ日本は火葬がほぼ100,0%ですが、もともとは土葬が一般的でした。明治の中頃でも火葬率は3割以下、戦後間もない頃は半々程度で、高度成長時代に急激に火葬が増えたといいます。

そう考えると、納経帳を副葬品として棺に納めるという習慣が明治まで遡るとは、ちょっと考えられません。もしかすると、火葬された人の中にそういう例があった可能性はありますが、一般的ということはなかったでしょう。

せいぜい遡ったとしても、火葬率が5割近くなった大正から昭和の初め、もしかすると戦後に言われ始めたことかもしれません。

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