熊野神社
正式名称:熊野神社
旧称:熊野宮、熊野十二社宮、四国第一大霊験所熊野大権現宮
御祭神:
第一殿(結之社):熊野夫須美大神(伊弉冉尊)、事解男尊
第二殿(速玉社):熊野速玉大神(速玉男尊)
第三殿(証誠殿):家津美御子大神(素盞嗚尊)
第四殿(若宮・若一王子):天照坐大神、国常立尊
第五殿(禅師宮):天忍穂耳尊
第六殿(聖宮):瓊々杵尊
第七殿(児宮):彦火々出見尊
第八殿(子守宮):鵜草葺不合尊
第九殿(一萬宮):火之迦具土神
第十殿(勧請宮):罔象女尊
第十一殿(十萬宮):埴山姫尊
第十二殿(飛行宮):稚産霊尊
合祀:大山積神、大雷神、高龗神(旧村社三島神社・三頭神社)
創建年代:大同2年(807)
例祭:10月5日
社格等:旧郷社
鎮座地:愛媛県四国中央市新宮町新宮483番地 [Mapion|googlemap]
公共交通機関を利用する場合、伊予三島駅から霧の森もしくは新宮行きのバスに乗り、新宮バス停で下車すると徒歩すぐのところですが、1日に4便しかありません。
自動車を利用する場合、高知自動車道の新宮インターチェンジから約5分、四国中央市新宮庁舎の隣です。
熊野神社の御由緒
伊予新宮鎮守の熊野神社は、社伝によれば大同2年(807)9月18日、紀伊国の速玉社(熊野三山の新宮、現在の熊野速玉大社)を勧請したことに始まるとされます。
当地はもともと古美(こみ)村といいましたが、新宮を祀ったことにより古美新宮と称するようになったといいます。これが新宮の地名の由来で、当社の境内から出土した承応2年(1223)銘の神鏡に「伊予国宇麻郡 古美新宮」とあるのが初見とされます。
当社は四国における熊野信仰第一の霊場で、聖護院門跡帳には「四国第一大霊験所熊野大権現宮」と記されているそうです。
古くは、伊予国は熊山(上浮穴郡久万高原町)まで、阿波国は岩津(美馬市穴吹町付近)まで、土佐は保木峰(香美市土佐山田町)まで、讃岐国は全域を氏子場として熊野宮の牛王の神符を配布していました。大正の頃まで、香川県観音寺市大野原町の田野々地区から氏子総代が出ていたそうです。
また、時宗では開祖の一遍上人が熊野権現の託宣を受けて宗教的確信を得たことを開宗とすることから、熊野権現を守護神とします。一遍上人の後継者は遊行上人と呼ばれ、一ヶ所に留まることなく全国を遊行したのですが、伊予路の遊行を終える際には当社に参詣するのが習わしとなっていました。
戦国時代の永禄年間(1558~70)に長宗我部軍が侵入し、社殿や宝庫、屋敷、神宮寺などが焼失したと伝えられますが、長宗我部元親の伊予攻略は天正年間(1573~93)のことなので、この社伝については検討が必要とされています。ただし、永禄5年(1562)社殿再建の棟札が残っており、また境内の地下1mほどのところには戦火の跡と思われる焼け石が見つかるとのことで、この時期に戦火に遭ったことは間違いなさそうです。
文化14年(1817)には現在の拝殿、嘉永2年(1849)には本殿が造営されました。明治初年に神仏分離が行われ、明治5年(1872)郷社に列格しました。当社の神宮寺は神社に隣接する市役所新宮庁舎(旧新宮村役場)の場所にありましたが、廃寺になったようです。
古社としての歴史を窺わせるものに上記承応2年(1223)銘の神鏡と嘉禄2年(1226)の奥書がある大般若経があります。いずれも信山大法主沙弥定広によって奉納されたもので、県の文化財に指定されています。
神鏡の銘文には「伊与國宇麻郡 古美新宮 輿御鏡十二枚之内 承応二年三月六日 信山大法主沙弥定廣」とあり、神輿に用いるために作られた神鏡12面のうちの1枚と考えられています。中世の兵火で土中に埋まり、近世になって発見されたものです。
大般若経は600巻から成りますが、その第六百巻の奥書には「嘉禄二年歳次丙戌十一月晦辛巳□時与州宇麻新宮石室ニテ 大願主沙弥定廣 結縁執筆龍圓一筆五快内」とあります。
その他、永禄5年(1562)から嘉永2年(1849)まで6枚の棟札や大永2年(1522)のものと伝わる牛王宝印の版木、室町時代の作と推定される神像多数や「四国第一大霊験権現」「熊野大権現宮」の社号額などが残され、かつての隆盛を伝えています。
熊野神社の御朱印
御朱印は参道脇の宮司様宅でいただきました。
平成29年拝受の御朱印。中央の朱印は雲と波、八咫烏に「郷社」「熊野神社璽」。右の印は榊であろう。揮毫は「四国第一大霊験所」
熊野神社の参拝記
四国中央市新宮町、かつての宇摩郡新宮村の熊野神社は、吉野川上流の銅山川と馬立川の合流点に、土佐街道に面して鎮座しています。
愛媛に育った私にとって、新宮村というと交通の不便な山村というイメージを持っていたのですが、それは近代のことのようです。
明治以降、瀬戸内海側と高知を結ぶのは国道32号線やJR土讃線など阿波池田から大歩危・小歩危を通過して高知県大豊町に抜けるルートがメインになりましたが、江戸時代以前は伊予新宮を通過する土佐街道が利用されていました。土佐藩主の参勤交代も、享和3年(1718)に6代藩主山内豊隆が海路をやめてこの街道を使うようになり、土佐から金刀比羅宮を参拝する人もこことを通ったそうです。
そして、銅山川を下れば吉野川を通じて阿波に出ます。銅山川と土佐街道が交差する熊野神社の鎮座地は、伊予・讃岐・阿波・土佐を結ぶ交通の要衝であり、ここに熊野信仰の拠点が置かれ、四国における第一の霊場となったというのはとても理に適ったことといえるでしょう。
今はひなびた山村になっていますが、高知自動車道がかつての土佐街道沿いに開通したため、インターチェンジから車で5分ほどになり、再び交通の便はよくなっています。ただし、今回は四国別格13番(四国65番奥之院)の仙龍寺から四国別格15番箸蔵寺に向かう途中で参拝したため、国道319号線を利用しました。
国道319号線を新宮町(旧新宮村)の中心に向かって進み、銅山川を渡ってすぐ、馬立川を渡る橋の手前を右折すると、すぐに熊野神社の参道が見えます。
熊野神社の参道の石段。
参道の途中に石の鳥居があります。扁額には「熊野神社」。
自然石の社号標。右側に見えるのは公民館です。
石段を登り切り、左に進むと手水舎があります。
その右側が平坦な境内となっており、参拝時からちょうど200年前の文化14年(1817)に造営された拝殿が建っています。入母屋造瓦葺き、仏堂建築を思わせます。神仏習合の霊場であった時代を感じさせます。
拝殿に掲げられた扁額は「熊野十二社宮」。拝殿内部には「熊野大権現宮」という扁額が掲げられていました。
一段高い位置にある本殿。それほど大きいわけではありませんが、見事な斗栱を備えています。造営は嘉永2年(1849)。
境内社の山背神社。御祭神は大山積命・木花咲耶姫命・天児屋根命・句々廼智命で、相殿に荒神社の大山積神、応神社の応神天皇、琴刀比羅社の大物主命、若宮社の大穴牟遅命を祀ります。
元は明神森(現在の新宮小中学校)に鎮座していました。創建年代は不詳ですが、延暦15年(796)古代の官道である南海道の山背駅(四国中央市新宮町馬立にあったとされる)が設置される以前に遡ると伝えられているそうです。
同じく境内社の山神社。御祭神は大山積神で、新宮鉱山の閉山により、熊野神社境内に遷座したそうです。
今はのどかな山村の鎮守ですが、社殿などにかつての四国第一の熊野信仰の霊場だった名残を感じることができます。手入れも行き届いた気持ちのよい境内で、大切にお祀りされていることが伝わってきました。
参拝の後、参道脇の宮司様宅にて御朱印を拝受。最近は、御朱印をいただくために参拝する人が増えているということでした。
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