滋賀県大津市坂本本町4220(Mapion/googlemap)
比叡山 無動寺(むどうじ)
正式名称:比叡山 無動寺
御本尊:不動明王(明王堂)
創建年代:貞観7年(865)
開基:建立大師相応
宗派等:天台宗
北嶺回峰の根本道場である無動寺は比叡山東塔無動寺谷にあります。無動寺谷は比叡山東塔に属する五谷の一つで、比叡山のもっとも南にあることから「叡南(えなみ)」「南山」とも称されます。明王堂(本堂)を中心に弁天堂・大乗院・玉照院・法曼院などから成ります。
開基は比叡山千日回峰行の祖とされる建立大師相応です。
相応和尚は天長8年(831)近江国に生まれました。15歳で比叡山に登って鎮操に師事し、17歳で剃髪、斉衡2年(855)慈覚大師円仁の推挙により得度受戒しました。それから十二年籠山に入り、円仁から不動明王法その他を伝授され、無動寺谷に草庵を結んで苦修練行しました。
その後、比良山の葛川に参籠した際、生身の不動明王を感得。貞観5年(863)等身大の不動明王像を造立し、同7年(865)無動寺谷に一同を建立、その像を安置しました。これが無動寺明王堂の開創と伝えられます。元慶6年(882)には勅により天台別院となり、延喜15年(915)には藤原仲平により三間の仏堂に改築されました。
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちにより焼失しましたが、天正年間(1573~92)小堂が再建され、寛永12年(1635)天海僧正により六間半四方の堂が建立されました。現在の明王堂は天保14年(1843)の火災後に再建されたものです。
また、無動寺弁天堂は寛永年間(1624~44)の創建で、回峰中の相応和尚を守護するために白蛇として現れた弁財天を祀っていると伝えられます。
無動寺明王堂・弁天堂の御朱印
無動寺明王堂の御朱印。近畿三十六不動尊巡礼第26番としての御朱印になります。揮毫は「無動尊」、不動明王のことです。中央の宝印は火炎宝珠に不動明王の種字「カーン」。右上の印は「近畿二十六番」、左下は「明王堂印」。
無動寺弁天堂の御朱印。揮毫は「大辯財天女」。中央の宝印は火炎宝珠に弁財天の種字「ソ」、毘沙門天の種字「ベイ」、大黒天の種字「マ」。右上の印は「比叡山」、左下は「比叡山無動寺辯天堂」。
無動寺明王堂・弁天堂の参拝記
比叡山東塔の諸堂の巡拝、御朱印拝受を終え、無動寺谷へ向かうこととしました。無動寺谷では明王堂と弁天堂で御朱印をいただくことができます。
ケーブル延暦寺駅の脇、無動寺参道入り口の鳥居。「大辯才天女」の扁額が掲げられています。無動寺谷へはここから約700m坂を下ります。
無動寺谷への坂道。どんどん下っていきます。
閼伽井。千日回峰の行者は700日を終えると9日間の堂入り(明王堂参籠)を行います。明王堂に籠もり、断食・断水・不眠・不臥(飲まず、食わず、眠らず、横にならず)で不動明王の真言を十万遍唱え、一日三座のお勤めを行うというものですが、一日一回午前2時、この閼伽井でお不動様に供える水を汲みます。
弁天堂の鳥居。ここで明王堂への道と弁天堂への道が分岐するのですが、まずは明王堂に向かいます。
明王堂。昨年、改修工事が終わったばかりだそうです。参拝、御朱印は堂内にて。
続いて弁天堂へ。弁天堂の鳥居まで戻り、坂道を下ります。
弁天堂境内。神社と同じく鳥居や狛犬があります。
神仏習合の時代において、弁財天などインドの神様も日本の神様と同じように。今は神仏で分ければ「仏」に分類するのが一般的でしょうが、江戸時代以前は「神」に分類されていたわけです。明治の神仏分離以降、弁財天を祀るお堂の多くが、同一視されていた市杵島姫命(あるいは宗像三女神)を祀る神社や祠(お社)になりました。多くの神社の境内に厳島神社や宗形神社、あるいは弁天社などが祀られているのを見ると、どれほど弁財天の人気が高かったかということがよくわかります。
弁天堂。平成10年に比叡山を参拝したのは、現在、善光寺大勧進の副住職をされている瀧口宥誠師にお話を聞かせていただくのが主目的だったのですが、瀧口師は弁天堂の輪番をされているとき、いろいろ神秘的な体験をされたということでした。そういうことがあっても不思議はないなあと思わせる雰囲気があります。
弁天堂の裏に鎮座する宇賀神社。霊気漂う空間です。
弁天堂での参拝、御朱印拝受を終えた後、ケーブルカーで比叡山を下り、次の目的地である日吉大社へと向かいました。
比叡山延暦寺 根本中堂
比叡山延暦寺 東塔の諸堂
比叡山延暦寺 無動寺谷明王堂・弁天堂
日吉大社 申年参り
西教寺 天台真盛宗総本山
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