長野県長野市東町186-2(Mapion/googlemap)
善光寺三鎮守の残る一社は、善光寺の表参道の東側19ヶ町を氏子とする武井神社(たけいじんじゃ)です。もちろん、善光寺七社の一でもあります。
御朱印拝受は平成24年9月の2度目の参拝で。最初の参拝は平成21年9月、ちょうど拝殿の新築工事が行われている最中でした。
この時は宮司さんがいらっしゃらず、御朱印をいただくことができませんでした。
武井神社は妻科神社・湯福神社と同じく諏訪系で、御祭神は健御名方神の和魂、相殿に妃の八坂刀売神と御子神の彦神別神(健御名方富命彦神別神)を祀ります。
三鎮守と健御名方富命彦神別社(水内大社・城山県社)は、七年ごとの寅年と申年に四社交替で御柱祭を行いますが、湯福神社と武井神社に健御名方神の荒魂と和魂、妻科神社に八坂刀売神、健御名方富命彦神別神社に彦神別神を祀っているわけです。妻科神社の由緒書では、健御名方富命彦神別神社に比定される水内大社について、妻科・湯福・武井神社も含んで一体をなすという見方をしています。
善光寺の表参道、大門の交差点で国道406号線を東に進むと、北側に武井神社の鳥居がそびえています。
境内社。天神社・三峰社・金刀比羅社を祀っているようです。左側の祠は矢島稲荷。
松尾社。左の剣型の石は猿田彦大神。
雷電の力石。雷電は江戸時代の信州出身の大力士、雷電為右衛門のこと。
この石はもともと神社の東側を流れる鐘鋳川にかかる橋として使われ、武井橋と呼ばれてていました。この橋をかけ替えるとき、古い橋は武井神社に奉納されることになったのですが、重くて運ぶことができません。それを相撲の巡業で善光寺に来ていた雷電為右衛門が持ち上げ、神社まで運びました。以来、この石は雷電の力石と呼ばれ、この上に子どもが立つと丈夫に育つと伝えられているそうです。
真新しい拝殿。
本殿。元からのものを改修したような感じでした。
実は、2回目の参拝時も、午前中に参拝した時は留守でした。やむなく他を回った後、午後に再度参拝するとご家族は帰宅されていて、無事に御朱印をいただくことができました。
武井神社の御朱印
武井神社の御朱印。上に梶の葉の神紋、下に「武井神社」。
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武井神社の概要
武井神社(たけい じんじゃ)
正式名称:武井神社
御祭神:健御名方神の和魂 /相殿:八坂刀売神、健御名方富命彦神別神
創建年代:不詳
鎮座地:長野県長野市東町186-2
社格等:旧村社
【由緒】
創建については不詳です。ネット上には持統天皇5年(692)ではないかという口伝があるという情報もありますが、これは『日本書紀』の持統天皇5年8月、使者を遣わして龍田風神(龍田大社)・信濃須波(諏訪大社)・水内神(水内大社=健御名方富命彦神別神社)を祭らしめたという記事に基づき、武井神社も水内大社と一体をなすという考え方によるものだろうと思います。
上古は武井明神または諏訪明神と称していました。武井の名の由来はよくわかりませんが、諏訪大社下社の大祝・金刺氏の一族で本家滅亡後に祭祀を継承した武居祝との指摘する説もあるようです。文化4年(1807)11月、神道管領・吉田家の允可により、現在の社号に改められました。
当社と妻科神社・湯福神社・健御名方富命彦神別社(水内大社・城山県社)は、七年ごとの寅年と申年に四社交替で御柱祭を行います。
※メモ
上記の武井神社への改称については少々疑問があります。諏訪明神から武井神社へ改めたというのはわかりますが、江戸時代に吉田家の許可で武井明神から武井神社へというのはありでしょうか?
同じ文化4年の7月に湯福神社がやはり吉田家の許可を受けて諏訪明神から改称していること、それに先立つ宝暦14年(1764)に妻科神社も諏訪大明神から改称していることから考えて、上古は武井明神と称していたが、江戸時代には諏訪明神と呼ばれるようになっていたので、許可を得て武井神社に戻した、ということではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。
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