道念(石童丸)を弟子とした刈萱道心は、親子であることをつげないまま高野山の刈萱堂で修業を重ねます。しかし、親子の情愛にひかれて修行がおろそかになることを恐れ、信州の善光寺へ向かったと伝えられます。そして、善光寺のそばに草庵を結び、建保2年(1214)に83歳で亡くなったとされます。
善光寺のそばには刈萱道心の終焉の地とされる寺院が2ヶ寺あります。その一つが刈萱堂往生寺です。
往生寺は善光寺三鎮守の一つ・湯福神社の前の道を西に進み、坂を上っていった山の中腹にあります。かつては、善光寺に参拝したならば必ず往生寺にも参拝するものとされていたそうです。
今では往生寺まで足を延ばす人は少なくなっているようですが、湯福神社の前にある道標が往時のにぎわいを偲ばせます。
寺伝によれば、善光寺に参籠した刈萱道心は、如来のお告げにより当地に草庵を結び、地蔵菩薩像を彫り上げて、建保2年(1214)83歳で亡くなりました。その後、刈萱道心を慕って来た道念(石童丸)は、残された地蔵菩薩像を手本としてもう一体の像を刻みました。この二体の地蔵は刈萱親子地蔵尊と称され、厄難を救い、臨終には同行となって必ず極楽へ導いてくださるとされているそうです。
参拝したのは平成24年の善光寺参拝のおり。湯福神社に参拝した後、そのまま往生寺へと向かいました。
レンタサイクルで回っていたのですが、結構急な坂で、汗だくになりながら自転車を押しての登拝となりました。道が狭いので、自動車でも結構大変ではないかと思います。徒歩が無難かもしれません。
ようやく往生寺に到着。結構高い場所にあるので、ひなびた山寺を想像していたのですが、手入れが行き届いた気持ちのよい境内で、疲れがスッと引いていく感じがしました。
『刈萱一枚法語』の碑。
刈萱一枚法語
昼あれば必ず夜ありと知るがゆえに燈燭の備をなす。暑あれば必ず寒ありと知るがゆえに秋の碪(きぬた)の音たへず。老の眠りを驚かせども生あれば必ず死ありといふことは知るや知らずや一向なんの用意もなし。こはいかなる心の怠りにや。無常迅速なり。只今も知れず。死期の到来せし時いかんせんや。もし吾が言を用ひて死の備をせんと欲せば、何時にもあれ、只今命おわると思ひて万事を放下し、己が耳にきこふるほど高からず低からず南無阿弥陀仏と十念すべし。時と所と不浄をえらばず。唯わすれさるを第一とす。ゆめゆめおこたるべからず。
建暦三年正月二十四日
等阿弥陀仏
※建暦3年は西暦1213年。
鐘楼。『夕焼け小焼け』の作曲者・草川信は長野市の出身で、幼少時に聞いたこの鐘の音を思い出して作曲したといわれ、「夕焼けの鐘」と呼ばれています。鐘楼の前には作詞者の中村紅雨直筆の歌碑があります。
刈萱法師御廟。刈萱道心の墓所です。
眺望がすばらしく、長野の町を一望することができます。眼下には善光寺の本堂が見えます。
途中の道が急坂で、車にせよ歩くにせよちょっと大変ですが、それでも参拝するだけの値打ちがあるお寺です。
往生寺の御朱印
往生寺の御朱印。墨書は「刈萱親子地蔵尊」。中央の朱印は蓮華座の火炎宝珠に地蔵菩薩の種字「カ」。右上の印はよくわかりませんが、「■■感応」のように見えます。左下は「信州善光寺刈萱堂往生寺印」。
[amazonjs asin=”4585012397″ locale=”JP” title=”苅萱 石童丸物語 (人間愛叢書)”]
往生寺の概要
安楽山 菩提心院 往生寺(おうじょうじ)
通称:刈萱堂
御本尊:阿弥陀如来
創建年代:
開山:寂昭坊等阿(刈萱上人)
所在地:長野県長野市西長野往生地1334(Mapion/googlemap)
宗派:浄土宗
コメント