滋賀県大津市三井寺町4-1(Mapion/googlemap)
長等神社(ながら じんじゃ)
正式名称:長等神社
旧称:新日吉社、新宮社
御祭神:建速須佐之男大神、大山咋神 /配祀:市杵島姫神、宇佐若宮下照姫大神、八幡大神
創建年代:天智天皇の御代
例祭:5月5日
社格等:旧県社
http://nagarajinja.net/
【御由緒】
社伝によれば、天智天皇が近江大津に遷都した際、都の鎮護として長等山岩座谷に須佐之男命を奉斎したことを起源とします。天智天皇8年(669)5月5日、天皇が宇治山科からの帰途、当社に弓矢を奉納しました。これに因み、大友与多王が5月5日を当社の例祭と定めました。
大友与多王は天智天皇の孫で大友皇子(弘文天皇)の子、長等山の麓に構えていた邸宅を寄進して園城寺(三井寺)を建立したと伝えられています。
貞観2年(860)園城寺を再興した智証大師円珍は、一山の守護神として日吉山王権現を勧請・合祀し、新日吉社あるいは山王新宮と称するようになりました。
当社は本宮である日吉大社に対し、十二の回廊や楼門その他多くの建造物を擁する湖南の大社として皇室をはじめ武将、庶民に至る崇敬を集めましたが、山門・寺門の争いに巻き込まれて兵火に罹ることもたびたびでした。
天喜2年(1054)明尊大僧正は庶民参詣のため、山上にあった社を現社地に遷座しました。永保元年(1081)白河天皇は官符を下し、大津の住人に当社で日吉祭を執り行わせています。興国元年(1340)足利尊氏が社殿等を再建しました。
明治の神仏分離により園城寺から独立し、明治9年(1876)村社に列格、同16年(1883)長等神社と改称、郷社に昇格。同43年(1910)県社に昇格。
長等神社の御朱印
御朱印は社務所にていただきました。
長等神社の御朱印。上の印は左右に「近江大津」「長等山麓」、中央に「長等神社」。下の印は「長等神社」で、周囲に桜の花。
長等神社の参拝記
三尾神社から200mほど南へ向かうと端正な朱塗りの楼門がそびえています。園城寺(三井寺)の鎮守社の一つ、長等山の麓に鎮座する長等神社です。
長等神社は天智天皇が近江大津宮の鎮護として須佐之男命を祀ったことに始まり、智証大師円珍が三井寺を再興したとき、比叡山の鎮守である日吉社を勧請・合祀したものです。山王本宮である日吉大社に対する山王新宮ということになります。
往古は十二の回廊を誇る湖南の大社だったといいます。今ではそれほどの規模はありませんが、しっとりと落ち着いた雰囲気の神社です。
楼門は明治38年(1905)の竣工と比較的新しいものの、室町時代の様式にのっとった明治時代の楼門の秀作で、大津市の文化財に指定されています。
境内に入ると、正面に拝殿があります。
手水舎の吐水龍。これほど見事なものはなかなかありません。
境内社の笠森神社。
栄稲荷神社。
平忠度歌碑。「さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」
「昔ながら」と「長等(ながら)」を掛けています。
忠度は平清盛の弟で、一の谷の合戦で討ち死にしました。都落ちの際、和歌の師である藤原俊成に自作の歌百余を記した巻物を託した話が『平家物語』にあります。俊成は『千載和歌集』にこの歌を詠み人知らずとして収めました。
馬神神社。古来、牛馬の守護神として信仰を集め、全国の三馬神社の一に数えられます。元は大津東町に鎮座していましたが、明治43年(1910)長等神社境内に遷座しました。近年では乗馬や競馬の関係者、馬の愛好家、午年生まれの人の参拝が増えているそうです。
本殿。
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