秋田県秋田市寺内児桜一丁目5-55 [Mapion|googlemap]
古四王神社(こしおう じんじゃ)
正式名称:古四王神社
御祭神:武甕槌神、大彦命
創建年代:崇神天皇の御代/斉明天皇4年(658)
例祭:5月8日
社格等:国史現在社(論社)、旧国幣小社、別表神社
【御由緒】
社伝によれば、崇神天皇の御代(B.C.97~B.C.30)四道将軍の一人として北陸道に派遣された大彦命が武甕槌神を奉斎し、齶田浦(あぎたのうら)の神と称したことを創祀とします。齶田は秋田の古名とされます。
斉明天皇4年(658)阿倍比羅夫が下向した際、大彦命を合祀して古四王(越王)神社と称しました。阿部氏は大彦命の後裔です。
奈良時代になると、古四王神社が鎮座する高清水岡に出羽柵(後の秋田城)が移され、その鎮護の神として崇敬されました。延暦年間(782~806)坂上田村麻呂が再興したと伝えられます。
『三代実録』貞観7年(865)2月27日条にある「高泉(たかしみず)神」について、菅江真澄は当社に比定しています。
中世には秋田城内にあった四天王寺と結びつき、本山派(聖護院)の修験に属して古四王大権現と称しました(江戸時代は真言宗に帰属、別当は四天王寺の法灯を継ぐ亀甲山四天王寺東門院)。安東氏や秋田氏など武門の崇敬篤く、久保田藩主・佐竹氏も社領60石を寄進しました。
明治3年(1870)神仏分離に伴い古四王神社と改称、別当の東門院は廃寺となりました。同5年(1872)郷社に列格、同9年(1876)県社、同15年(1882)国幣小社に昇格しました。
古四王神社の御朱印
御朱印は社務所にていただきました。
揮毫・中央の朱印はともに「古四王神社」。
古四王神社の参拝記
秋田県唯一の国幣社であった古四王神社は、秋田市街と土崎港の中間、古代に秋田城が置かれた高清水岡に鎮座します。
「古四王(こしおう)」というのも不思議な名前ですが、当社をはじめ、古代「越(こし)」と呼ばれた北陸から東北にかけて「古四王」「胡四王」「高志王」など「こしおう」と称する神社が分布しています。これを「越王」の意として越の在来神、あるいは四道将軍の一人で北陸道に派遣された大彦命を「越の王」として祀ったではないかとする説があります。現在の神社の由緒はこちらを採っているようです。
一方で、『日本後記』逸文に見える秋田城内の四王堂を起源とするという説もあるようで、秋田市が作成した寺内地区の案内パンフレットを見ると、この説を採っています。神仏習合時代には、四天王を祀るとか、釈迦・薬師・毘沙門・文殊を四王とするという説もあったようです。
四王堂を古四王と改める理由が特にないので(古に対する新や今の四王がない)、「越王」とするのが妥当なように思いますが、それだと「こしおう」をわざわざ「古四王」と書く理由が不明確です。案外、「越王」と「四王堂」が習合して「古四王」になったのかもしれません。
『日本書紀』に見える齶田浦(あぎたうら)の神や『三代実録』にある高泉神に比定する説もあります。いずれにしても非常に古い由緒を持っていることは間違いありません。
古四王神社の鳥居。旧国道沿いにあります。
境内社・田村神社。御祭神は坂上田村麻呂。田村麻呂は古四王神社に戦勝祈願をして、人々を苦しめていた賊将・大獄丸を討ちました。それに感謝して田村麻呂の社を建て、大獄丸を射止めた白羽の矢を祀ったと伝えられます。
なお、この祈願のときに二足・四足の鳥獣を断食すること、毎年元旦から七日まで酒肴を禁断して精進潔斎することを誓ったとされ、寺内地区では終戦直後までそれを守っていたそうです。
菅江真澄の歌碑。
拝殿。
本殿。
ところで、鳥居を出て旧国道を渡り、向かいの道を下って行くと「高清水」という石標と「高清水霊泉入口」という看板が建っており、そこを入ると高清水岡の名の由来となった高清水霊泉があります。
高清水霊泉。阿倍比羅夫が古四王の神を祀ったとき、亀とともに湧き出したと伝えられています。秋田の銘酒「高清水」の名はこの泉に因むそうです。
かつては周囲の清流にサンショウウオが生息していたそうですが、残念ながら現在は飲用不可とのこと。
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