日蓮聖人御誕生の霊跡・小湊誕生寺に参拝したのは平成24年の8月。天気のよい、つまり大変暑い夏の日でした。
日蓮聖人が小湊片海に誕生されたのは貞応元年(1222)2月16日のことです。建治2年(1276)興津城主・佐久間重貞の外護により、弟子の寂日坊日家上人がその生家跡に一寺を建立し、高光山日蓮誕生寺と称しました。
明応7年(1498)の大地震・大津波のために伽藍は流失、旧地は海中に没してしまい、現在地に移転・再興されました。旧地は現在の境内の南西約300mの海中・蓮華譚(蓮華ヶ淵)といわれています。
江戸時代には海陸70石の寺領を御朱印により安堵され、徳川光圀は中興の大檀那として誕生寺の再建に尽くしました。元禄16年(1703)の津波により再び流失しますが、宝永年間(1704~11)水戸藩主・徳川綱條が先代・光圀の追善供養のために七堂伽藍を寄進しています。その伽藍も宝暦8年(1758)の大火で仁王門以外を焼失、その後、諸堂を再建して現在に至ります。
総門。
誕生堂。日蓮聖人のご幼像と両親の像を祀ります。ご幼像は、日蓮聖人が誕生された2月16日、ご両親の墓がある妙蓮寺から誕生寺まで輿に乗って渡御されるそうです。
誕生水。日蓮聖人が誕生された時、生家近くに清水が湧き出し、その水を汲んで産湯に使ったと伝えられます。清水は誕生水と名付けられ、日照りのときにも涸れることはなかったそうです。その後、明応7年の地震・津波で旧寺域が海中に没したため、現在地に再興されましたが、ここに新たな清水が湧き出ました。そこで、旧地を偲んで「誕生水」と名付け、聖人誕生の奇瑞を今に伝えているそうです。
仁王門。宝永3年(1706)建立。宝暦の大火に焼け残った誕生寺最古の建造物です。
祖師堂。境内掲示の略縁起に天保13年(1842)、公式サイトの略縁起に弘化3(1846)年とあるので、どういうことかと思っていたのですが、天保13年に上棟、弘化3年に落慶したということのようです。お祀りされているのは「蘇生満願の祖師」。平成3年の解体修理の際、内部から願文・写経・薬草など多数の納入品が見つかりました。その中にあった第4世・日静上人の願文により、「生身の祖師」として貞治2年(1363)に造立されたことがわかりました。地震・津波や祝融の災を乗り越えてきた尊像です。
本堂。平成3年建立。水戸家の寄進した貞享元年(1684)の十界本尊木像を祀ります。
誕生寺に隣接して鎮座する小湊神社。元は誕生寺の番神堂だったようです。今でも毎月1日や祭礼のときには誕生寺の役僧が赴いて読経するそうです。
小湊誕生寺の御首題と御朱印
御首題は祖師堂内の受付で対応。小湊誕生寺の御朱印帳にいただきました。
中央の朱印は「日蓮聖人 降誕霊跡 小湊誕生寺」、右上は白抜きで「日蓮大聖人御生誕之霊場」、左下は「安房国小湊山誕生寺」。
御朱印も授与されているようなので、携帯していた御朱印帳にいただきました。
中央の朱印は「小湊山」、右上は「日蓮大聖人御誕生霊場」、左下は白抜きで「大本山誕生寺」。いずれも御首題の印とは異なっています。
「蘇生延寿」の墨書は、文永元年(1264)日蓮聖人が父の七回忌と病の母の見舞いを兼ねて鎌倉より帰郷した際、すでに息絶えていた母のために祈祷されたところ、たちまち法華経の功徳現れて蘇生したのみならず、4ヶ月の寿命を延ばされたことに因みます。
ところで、日蓮宗寺院で、日蓮宗の信者には御首題を、信者以外には通常の納経を、というのは江戸時代からのことのようです。
安政7年(1860)の六十六部の納経帳。「勅賜 日蓮大士」。「大士」は「摩訶薩」で菩薩と同じですから、延文3年(正平13年・1358)に後光厳天皇から賜った諡号「日蓮大菩薩」のことでしょう。
こちらは江戸時代のものと思われる年代不詳の御首題帳。ところが、お題目ではなく寺の名前が書かれています。余り手許に資料がないので断言はできませんが、古い時代には、本山・本寺クラスの寺院は御首題帳にお題目ではなく寺の名前を書いていたのではないかと思われます(少なくとも私の所持している御首題帳ではそうなっています)。
現在では御朱印の日蓮宗版のように思われている御首題ですが、本来はまったく異なる形式と性質のものだったようです。御首題についてはいずれ機会を改めて考察してみたいと思っています。
[amazonjs asin=”B00078XEO4″ locale=”JP” title=”日蓮 DVD”]
誕生寺の概要
小湊山 誕生寺(たんじょうじ)
御本尊:十界本尊
祖師像:生身の祖師(蘇生満願の祖師)
創建年代:建治2年(1276)
開山:日家上人
鎮座地:千葉県鴨川市小湊183
宗派等:日蓮宗大本山、霊跡寺院
http://www.tanjoh-ji.jp/
コメント