三重県津市大門32-19 [Mapion|googlemap]
恵日山 観音寺 大宝院(かんのんじ だいほういん)
通称:津観音
御本尊:聖観世音菩薩
創建年代:和銅2年(709)
開基:不詳
宗派等:真言宗醍醐派別格本山
http://www.tsukannon.com/
【略縁起】
津観音は東京の浅草観音、名古屋の大須観音とともに日本三大観音の一つとされます。特に江戸時代には本坊・大宝院の本尊・国府(こう)の阿弥陀如来が伊勢神宮天照大神の本地仏とされたことから、伊勢参宮の際には津観音に参拝するのが習いとなり、「津に参らねば片参り」と言われたほどでした。
寺伝によれば、和銅2年(709)阿漕浦で漁師の網に観世音菩薩の像がかかり、その奇瑞を奏上された元明天皇の勅により伽藍が建立されたといいます。その後の歴史はよくわかりませんが、室町時代に三津七湊の一に数えられた安濃津でも重要な寺院として栄えていたようです。
現在地に移転した時期については、明応7年(1498)の大地震と津波で安濃津が壊滅的な被害を受けた後とする資料と天正8年(1580)安濃津(津)の城下町が形成された際とする資料があるようです。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の際、西軍の兵火により一山全焼しましたが、同18年(1613)新たに藩主となった藤堂高虎によって再建されました。また寺領として津藩から50石、久居藩から10石を寄進されていました。江戸時代の繁栄ぶりは『伊勢参宮名所図会』などからも伺うことができます。
『伊勢参宮名所図会』恵日山観音寺・国府阿弥陀の挿絵には、2月に行われる鬼押えの様子が描かれています。左端、大宝院の本堂には「国府阿みだ」とあります。
観音寺は一山の総称で住職はおらず、寺務は塔頭7ヶ寺のうち本坊・大宝院を中心とする4ヶ寺が司っていたようです。
大宝院はもともと奄芸郡窪田村(現・津市大里窪田町)にあり、当初は六大院と称していました。文安年間(1444~48)長円上人によって開創され、後花園天皇の勅願所となった名刹です。しかし永禄8年(1565)織田・北畠の合戦の兵火で焼失してしまいました。
天正8年(1580)津城主となった織田信長の弟・信包は六大院の荒廃を嘆き、津観音境内に移して再興しました。この時、鈴鹿郡国府村(鈴鹿市国府町)の無量寿寺(現在は府南寺と合併)より伊勢神宮天照大神の本地仏とされる国府の阿弥陀如来を移して本尊としました。
文禄3年(1594)豊臣秀吉が六大院に朱印地100石を寄進、この後六大院は大宝院と称するようになりました。徳川幕府も歴代将軍が大宝院に対して寺領100石の朱印状を下付しています。
明治以降、幕府や藩主の庇護は失われましたが、庶民の広い信仰を集め、また市民の娯楽の中心としても賑わいました。しかし昭和20年(1945)米軍の空襲により旧国宝の観音寺本堂・大宝院本堂を含む伽藍が灰燼に帰しました。
昭和24年(1949)河芸郡大里村窪田の安養寺本堂を移築、仮観音堂として再興。同43年(1968)観音堂が再建されました。さらに同55年(1980)仁王門、同59年(1984)鐘楼堂、平成6年(1994)護摩堂、同13年(2001)五重塔と着実に復興を遂げています。
津観音の御朱印
御朱印は観音堂(本堂)内の授与所にていただきました。
中央の宝印は蓮台上に聖観世音菩薩の種字「サ」、不動明王の種字「カーン」、毘沙門天の種字「ベイ」。右上の印は白抜きで「聖観世音菩薩 国府阿弥陀如来」、左下は「恵日山観音寺」。
津観音の参拝記
平成28年3月、伊勢参宮の途中で津市の観音寺(津観音)に参拝しました。
今回、津観音を参拝しようと思ったそもそものきっかけはこの納経です。
文政5年(1822)六十六部のものと思われる納経帳にあった大宝院・国府阿弥陀如来の納経。「天照皇太神宮御本地仏」に興味を惹かれて調べた結果、津観音にたどり着きました。
伊勢神宮の天照大神の本地仏などというと、もしかすると神道原理主義のような人には気に入らないかもしれませんが、私はむしろこういうのが大好きです。前回、遷宮年の参拝は強行軍で余分な寄り道はできなかったのですが、今回は余裕を持った日程を組み、津観音にも参拝できたわけです。
津駅から三交バス、三重会館前で下車し、少し東に歩くと津観音の門前町、大門商店街に出ます。浅草・大須に並ぶ賑わいだったといいますが、かなり寂れてしまっています。駅から遠いという立地条件もあるのでしょうが…
街角に道標がありました。「すぐこうのあみだ(国府の阿弥陀)」「左げこうみち(下向道)」、横の面には「左こうのあみだ」「右さんぐうみち(参宮道)」とあります。『東海道中膝栗毛』に「津の入口、左の方に如意輪観音堂あり、また国府の阿弥陀といへるもあり」とあるのがここでしょう。
仁王門。昭和55年(1980)の再建。門前町を大門町と称するだけあって、戦災で焼失したかつての山門は二層の堂々たる門だったようです。
境内は着実に再建が進んでいるとはいえ、ガランとした印象です。Wikipediaによれば空襲で41棟もの建物が焼失したとのこと。境内の広さが、かえって寂しさを感じさせます。
手水舎の水盤。銅製で天保7年(1836)のもの。目を惹いたのは「一御厨」の銘です。
阿漕浦にあった頃の津観音は伊勢神宮の御贄所で、現在地に移ってからも「一御厨(いちのみくりや)観音」と呼ばれていたとのこと。もともと伊勢神宮との関わりは深かったようです。
五重塔。平成13年(2001)に落成しました。
鐘楼堂、丈六地蔵尊、護摩堂、西国三十三所の写し霊場。
小津安二郎記念碑。小津安二郎は伊勢商人の家に生まれ、10代を三重県で過ごしています。母方の祖母・津志は一志郡竹原村から津観音の近くに嫁いでおり、若き日の安二郎は津観音境内の映画館にも馴染んでいたそうです。
観音堂。御本尊の聖観世音菩薩と大宝院の本尊・国府阿弥陀如来が祀られています。
授与所で御朱印をいただくとき、国府の阿弥陀如来の御朱印はいただけないかうかがったところ、授与はしていないとのこと。印もないそうです。そもそも国府の阿弥陀如来を知っている人がほとんどいないそうで、御朱印について聞かれたこともないということでした。
なんと勿体ない。
かつての伽藍が残っていれば、観光地として多くの人が訪れていたでしょうから、国府の阿弥陀如来が忘れられるということもなかったのでしょうが…
せめて御朱印拝受のために参拝する方は、国府阿弥陀如来様にも注目してもらいたいものだと。江戸時代の納経帳では国府阿弥陀如来のほうが重視されているわけですから。
ところで、両部神道では両部神道では内宮を胎蔵界の大日如来、外宮を金剛界の大日如来とするのに、なぜ阿弥陀如来が本地仏とされるのでしょうか。
伝えられるところによれば、鎌倉時代、西大寺の興正菩薩叡尊(真言律宗の開祖)の弟子の覚乗という僧が伊勢神宮に参籠し、本地の姿を示すよう祈願したところ、満願の日に「国府の弥陀三尊なり」というお告げがありました。そこで国府村の無量寿寺で大般若会を行ったところ、本尊が光明を放ち、それがお告げで感得した姿と同じであったことから、大神の姿を表す唯一の像として信仰を集めるようになったそうです。
大宝院。平成27年11月、真言宗醍醐派の別格本山に昇格したそうです。津観音の寺務所となっていますが、位置は『伊勢参宮名所図会』の挿絵と同じ場所のようです。
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