「江戸七氷川」考

江戸名所図会赤坂氷川神社

赤坂氷川神社『江戸名所図会』(国会図書館デジタルコレクション)

「江戸七氷川」は江戸に鎮座していた七所の氷川神社です。筆頭とされる赤坂氷川神社をはじめ、七氷川に数えられる神社の紹介でよく使われています。そのため、東京の神社に関心のある人ならば大抵その名は知っていると思うのですが、その正確な内容についてはよくわかってないのではないでしょうか。

以前は赤坂氷川神社の公式サイトに七氷川に関する記述があり、それがネット上では最も詳しかったのですが、現在は削除されています。その削除された記述でも、七氷川が現在のどの神社に当たるかについて、5社は確定していましたが、1社については不明、1社については候補を提示しているだけでした。

現在、ネット上にある情報は、ほとんど赤坂氷川神社の削除された記述の孫引きのようで、私も含めて、よくわからないけれども確実そうな部分だけを引用しているというのが実情だと思われます。

そこで、改めて「江戸七氷川」について検討してみたいと思います。

『望海毎談』に見る七氷川

江戸七氷川については江戸時代半ばに成立した随筆『望海毎談』に記されています。そこで、まず『望海毎談』の該当部分を見たいと思います。

氷川明神

氷川明神、江戸の中に七所あり。

赤坂御門外の社。江戸にては年久し、元大宮の近くに小呂子と云所、氷川を祀りたりし社なり。此所より遷したる所なれば赤坂の宮居を小呂子の宮と呼びたるを誤て小六の宮といふ。

素盞男尊根の国に追せられ、手摩乳足摩乳が家に入給ふ所を日の川上といふ所なれば、日の川上といふ詞を以て氷川と呼て、素盞男尊を祭りたる神なり。

大己貴命は素盞男の御子なりと申すより、此神は此地神の祖たるを以て氷川の神霊には相共に祀る。世人、大己貴命ばかり祀り申すと覚へたり。

将軍家の若君(※徳川家重)御氏神たるを以て、享保十五年戌の正月、今井の明地に宮所結構に御造営ありて遷し給ひ、赤坂の元の宮居は隔年六月十五日祭礼の時の神輿の御旅所に成りて有来。銀杏の大木茂り、深く秋の落葉片々たり。

此外、今井の徳盛寺の内の氷川の社、麻布一本松の市中の社、羽根田村にて新堀近き所の社、下渋谷にて羽根田の屋敷口の社、又北の方にては上水の鰭なる萬年寺山の社、巣鴨の入口なる氷川の社頭は坂より上へ見上る所にして、いと神々しく、何も氏子多く賑ふなり。

以上のような内容です。「七氷川」という言葉はありませんが、江戸の中にある七所の氷川の社として、①赤坂御門の外の社、②今井の徳盛寺の内の氷川の社、③麻布一本松の市中の社、④羽根田村にて新堀近き所の社、⑤下渋谷にて羽根田の屋敷口の社、⑥上水の鰭なる萬年寺山の社、⑦巣鴨の入口なる氷川の社が挙げられています。

さて、赤坂氷川神社の公式サイトでは、①を港区赤坂の赤坂氷川神社、②を赤坂氷川神社の隣にあり、明治16年に合祀された本氷川神社、③を港区元麻布の麻布氷川神社、⑤を渋谷区東の渋谷氷川神社、⑦を文京区千石の簸川神社に当てていました。これらについては異論がないと思います。

そこで残りの2社が問題になるわけですが、⑥については中野区本町の本郷氷川神社という説があり、⑤については不明だが大田区羽田方面ではないかとされています。

本郷氷川神社を「上水の鰭なる萬年寺山の社」に当てるのは、同社が神田川(神田上水)近くの高台にあることによるのでしょう。また、「羽根田村にて新堀近き社」については、江戸近辺の羽根田村というのは現在の大田区羽田に当たる荏原郡羽田村だけなので、その近辺にあるはずということになるのではないかと思います。

しかし、本郷氷川神社のある多摩郡本郷村は江戸の範囲を示す朱引き・墨引きの外になります。また、羽田村については朱引き・墨引きの外にあるだけでなく、そもそもそれらしい氷川神社がありません。どちらの説も無理があるように思います。

そこで、確定している5社も含めて白紙に戻し、最初から考え直してみたいと思います。

七氷川を推理する

一般に「七氷川」というと、江戸の氷川神社で特に信仰を集めているところと説明されることが多いようです。しかし『望海毎談』の記述は「氷川明神江戸の中に七所有り」、つまり江戸の中には氷川明神が全部で七ヶ所あると言っているわけです。

ですから、江戸七氷川とは『望海毎談』が書かれた18世紀半ばの江戸の範囲内にあった七ヶ所の氷川神社ということになります。

江戸の範囲についての幕府の公式見解は文政元年(1818)に示された朱引きの内、もしくは町奉行の支配範囲である墨引きの内とされます。『望海毎談』より半世紀ほど後のことであり、また作者もそれほど厳密には考えていないと思いますが、一つの目安にはなります。

そこで、朱引き内にある氷川神社を探すと、以下の8社が該当します。

赤坂氷川神社(港区赤坂)
・本氷川神社(港区赤坂/赤坂氷川神社に合祀)
麻布氷川神社(港区元麻布)
白金氷川神社(港区白金)
簸川神社(文京区千石)
小日向神社(文京区小日向/明治2年、氷川神社と田中八幡を合祀して改称)
渋谷氷川神社(渋谷区東)
高田氷川神社(豊島区高田)

これらの内、①赤坂御門外の社に赤坂氷川神社、②今井の盛徳寺の内の氷川の社に本氷川神社、③麻布一本松の市中の社に麻布氷川神社、⑤下渋谷にて羽根田の屋敷口の社に渋谷氷川神社、⑦巣鴨の入口なる氷川の社に簸川神社を当てると、残りは白金氷川神社、小日向神社、高田氷川神社の3社ということになります。

④羽根田村にて新堀近き社

新堀は新堀川すなわち渋谷川の下流に当たる古川(現在では渋谷区部分を渋谷川、港区部分を古川と呼ぶ)のことと考えて間違いないでしょう。新堀川に近い氷川神社といえば、白金氷川神社です。

白金氷川神社

目黒白金辺図(国会図書館デジタルコレクション)より

羽根田村がよくわかりませんが、渋谷氷川神社を「羽根田の屋敷口の社」と呼んでいるので、白金に関係しているのではないかとも考えられます(渋谷氷川神社のある下豊沢村は白金氷川神社のある白金村と隣接している)。

江戸近郊で羽根田村といえば荏原郡羽田村(大田区羽田・本羽田)ですが、すでに述べた通り朱引きから大きく外れている上、村内に氷川神社もないので、考慮する必要はないでしょう。

よって④羽根田村にて新堀近き社は白金氷川神社で間違いないと思います。

⑥上水の鰭なる萬年寺山の社

上水は神田上水(神田川)と考えて間違いありません。中野区の本郷氷川神社を当てる説があるのも神田川の近くの高台にあるからでしょう。

次に「鰭」ですが、この字には「ひれ」と「はた」の2種の訓があります。「はた」は魚の名前ですが、「端」の当て字であろうと思われます。つまり、神田上水のすぐ端にある氷川明神ということになります。

神田川近くの氷川神社というと、小日向神社も高田氷川神社も該当するのですが、すぐ傍となると小日向神社に軍配が上がるでしょう。小日向神社は明治2年に氷川神社と田中八幡を合祀・改称したものです。合祀以前、氷川神社は日輪寺境内に鎮座していましたが、日輪寺は関口大洗堰で神田川(当時は江戸川)と分かれ、水戸屋敷へと流れる神田上水のほとりにありました。

江戸名所図会小日向神社

『江戸名所図会』金剛寺 氷川明神社 本法寺(国会図書館デジタルコレクション)

小日向神社(日輪寺)切絵図

礫川牛込小日向絵図(国会図書館デジタルコレクション)より

萬年寺山はよくわかりませんが、氷川明神の社殿は日輪寺本堂背後の蓮華山にあったとされるので、この蓮華山のことを指していると考えてよいでしょう。

また、小日向神社と高田氷川神社を比較すれば、郊外の高田氷川神社より江戸の中心部に近い小日向神社のほうが七氷川に相応しいとして間違いありません。

さらに、幕府が編纂した『御府内風土記』(明治6年の皇城火災で焼失)の資料として御府内の寺社に縁起を提出させた『文政寺社書上』には、朱引き内の氷川神社8社のうち高田氷川神社のみが含まれていないことも傍証とすることができるでしょう。

つまり『御府内風土記』に記載された氷川神社は赤坂氷川神社・本氷川神社・麻布氷川神社・白金氷川神社・渋谷氷川神社・小日向神社・簸川神社の七社だったはずで、当時の人々にとって江戸にある氷川明神はこれら七所だったと考えられるわけです。

江戸七氷川の各神社

というわけで、「江戸七氷川」については以下の各社であると考えます。

1.赤坂御門の外の社(赤坂氷川神社)

赤坂氷川神社

■赤坂氷川神社

御祭神:素盞嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命
社格:旧府社、元准勅祭社

天暦5年(951)蓮林僧正が霊夢を感得し、一ツ木の俗称・古呂故ヶ岡(現在の赤坂4丁目)に祀ったことを創祀とします。紀州藩中屋敷の氏神であったことから徳川吉宗が深く崇敬し、享保14年(1729)老中・水野忠之に命じて赤坂今井台の現社地に社殿を造営させ、翌享保15年(1730)4月26日に遷座しました。

明治元年(1868)准勅祭社に列せられました。同5年(1972)郷社に列格、同13年(1980)府社に昇格。明治16年(1883)隣接していた村社・本氷川明神社を合祀しました。

2.今井の徳盛寺の中の社(本氷川神社)

本氷川神社

今井谷六本木赤坂絵図(国会図書館デジタルコレクション)より

■本氷川神社(赤坂氷川神社に合祀)

御祭神:大己貴命・素盞嗚命・奇稲田姫・手摩乳・脚摩乳
社格:(旧村社)

赤坂氷川神社に隣接していた徳盛寺(曹洞宗)の境内に鎮座し、今井の総鎮守と呼ばれていました。

社伝によれば、古くは溜池の傍に鎮座していましたが、承応3年(1654)別当徳盛寺とともに今井台へ遷座しました。赤坂氷川神社が遷座してくる以前から当地にあったので「本氷川」と呼ばれたと伝えられます。

明治5年に村社に列格しましたが、明治16年(1883)赤坂氷川神社に合祀されました。

3.麻布一本松の市中の社(麻布氷川神社)

麻布氷川神社

■麻布氷川神社

御祭神:素盞嗚尊・日本武尊
社格:旧郷社

麻布の総鎮守で、麻布明神とも呼ばれました。天慶5年(938)源経基が現社地より250mほど北の一本松の地に勧請したと伝えられます。万治2年(1659)元の境内が増上寺の本誉露白に隠居地として与えられたため、現社地に遷座しました。

明治5年(1872)郷社に列格。昭和20年(1945)空襲で社殿が焼失し、戦後再建されました。

4.羽根田村にて新堀近き所の社(白金氷川神社)

白金氷川神社

■白金氷川神社

御祭神:素盞嗚尊・日本武尊・櫛稲田姫
社格:旧村社

白金の総鎮守で、江戸時代には白金村・白金台町・今里村等を氏子としていました。社伝によれば白鳳年間の創建といい、区内最古の神社とされます。あるいは景行天皇の御代、日本武尊が大宮の氷川神社から勧請したとも伝えられます。

明治5年(1872)村社に列格。昭和20年の空襲で社殿が焼失、現在の社殿は戦後に再建されたものです。

5.下渋谷にて羽根田の屋敷口の社(渋谷氷川神社)

渋谷氷川神社

■渋谷氷川神社

御祭神:素盞嗚尊・稲田姫命・大己貴命・天照皇大神
社格:旧村社

下渋谷村・下豊沢村の鎮守。創建年代は詳らかでありませんが、日本武尊が東征の際、素盞嗚尊を勧請したと伝えられます。弘仁年間(810~24)慈覚大師円仁が当社に参詣し、別当として宝泉寺を開いたとされます。例祭の奉納相撲は有名で、江戸郊外の三大相撲に数えられました。

明治5年(1872)村社に列格。現在の社殿は昭和13年(1938)に造営されたものです。

6.上水の鰭なる萬年寺山の社(小日向神社)

小日向神社

■小日向神社

御祭神:誉田別皇命・建速須佐之男命
社格:旧村社

明治2年(1869)小日向水道町(小日向一丁目)に鎮座していた氷川神社と音羽九丁目裏(音羽一丁目、現・今宮神社境内)に鎮座していた田中八幡を合祀して現社地に遷し、小日向神社と改称しました。明治5年(1872)村社に列格。

合祀された氷川神社は小日向の総鎮守で、合祀以前は曹洞宗・慈照山日輪寺境内の蓮華山に鎮座していました。創建年代は不詳ですが、社伝によれば天慶3年(940)平貞盛が平將門の乱を平定した際、武蔵国一宮・氷川神社の霊験があらたかであったことから、奉賽として当地に小社を建立して氷川神社を勧請したといいます。

7.巣鴨の入口なる氷川の社(簸川神社)

簸川神社

■簸川神社

御祭神:素盞嗚命・大己貴命・稲田姫命
社格:旧村社

古くは氷川明神社、明治以降は氷川神社と称していました。江戸時代には小石川の大部分を氏子としていたといわれます。

社伝によれば孝昭天皇3年(B.C.473)の鎮座で、室町時代、了誉聖冏上人(伝通院開山で浄土宗鎮西派第七祖)が、荒廃していた当社の社地社殿を再興したと伝えられます。古くは現在の小石川植物園の辺りに白山神社・女体宮と並んで鎮座していましたが、四代将軍家綱の弟・徳松(後の五代将軍綱吉)の別邸(白山御殿)が造営されることになり、当社は原町(現在の白山四丁目20番あたり)を経て元禄12年(1699)現社地に遷座しました。

明治5年(1872)村社に列格。大正の頃、学者に諮って「簸川」の字が適切との結論を得、氏子の同意を得て簸川神社と改称しました。旧社殿は戦災で焼失し、昭和33年(1958)現在の社殿が再建されました。

コメント

  1. […] た。旧地は麻布一本松のあたりで、天慶5年(942)源経基が創建したとも、文明年間(1469~85)太田道灌が勧請したとも伝えられる。江戸時代は江戸七氷川の一として崇敬されたという。 […]

  2. […] 江戸七氷川の筆頭に挙げられる古社である(七氷川には元麻布の麻布氷川神社、渋谷区東の渋谷氷川神社、文京区千石の簸川神社などが数えられている)。旧別当は修験道本山派・聖護 […]

  3. […] の恵日山宝泉寺であった。赤坂氷川神社などとともに江戸七氷川の一に数えられる。 […]

  4. […] 川の大部分を氏子としていたという。また、江戸の七氷川の一つにも数えられていた。 […]

  5. […] うして、しるべからずといへり。中古太田道潅の再興にして、小日向の鎮守なり」とある。『望海毎談』にある江戸七氷川のうち、「上水の鰭なる萬年寺山の社」は当社のことであろう。 […]

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