京都市東山区林下町400(Mapion/googlemap)
華頂山 知恩院(ちおんいん)
正式名称:華頂山 知恩教院 大谷寺
御本尊:法然上人・阿弥陀如来
創建年代:承安5年(1175)
開基:法然上人
鎮座地:京都市東山区林下町400
宗派等:浄土宗総本山
http://www.chion-in.or.jp/
【略縁起】
建暦2年(1212)法然上人が入寂されると、長年教えを説き続けた東山大谷の吉水の地に御廟が営まれました。しかし嘉禄3年(1227)専修念仏の停止を要求する比叡山の僧兵によって破却されました。
その後、勢観房源智が大谷の廟所の再興に努め、文暦元年(1734)遺骨を納めて仏殿、御影堂、総門を建立、華頂山知恩院大谷寺と号しました。
永享3年(1431)、応仁2年(1468)、永正14年(1517)には火災で伽藍が焼失していますが、その都度再建されています。
知恩院が現在のような壮大な伽藍を誇るようになったのは、深く浄土宗に帰依していた徳川家康が、知恩院で母・伝通院(於大の方)の葬儀を行い、永代菩提所と定めたことによります。
慶長8年(1603)家康は知恩院に寺領700石余を寄進し、境内を拡張して堂塔伽藍の建立を行いました。寛永10年(1633)火災で三門・経蔵・勢至堂以外の堂宇を焼失しますが、徳川家光の命により直ちに再建に取り掛かり、同18年(1639)には主な諸堂の再建が成りました。
知恩院の御朱印
今回いただいたのは家康公四百回忌の御朱印と圓光大師二十五霊場の御詠歌の御朱印。平成23年にいただいた時は、御詠歌の御朱印はなかったように記憶しています。
家康公四百回忌の御朱印。中央の墨書は「欣求浄土(ごんぐじょうど)」。中央の朱印は三つ葉葵。因みに知恩院は三つ葉葵を寺紋にしているようです。右上の印は「徳川家康公四百回忌」、左下は「浄土宗総本山知恩院」。
圓光大師二十五霊場の御詠歌の御朱印。圓光大師は法然上人の諡号で、法然上人ゆかりの霊場二十五ヶ所を巡拝するものです。
御詠歌は「草も木も枯れたる野辺にたゞひとり 松のみ残る弥陀の本願」。作者は江戸の増上寺12世・観智国師貞蓮社源誉存応上人で、江戸に入った徳川家康の帰依を受けた高僧です。あらゆる教えが滅びる末法の世にあってもただ一つ残る弥陀の本願を常緑の松に例えた歌ですが、徳川氏の元の姓である松平にも掛けているようです。
中央の朱印は「佛法僧寶」の三宝印、右上は「圓光大師廿五霊場第二十五番」、左下は「浄土宗総本山知恩院」。
因みに、前回平成23年の参拝で頂いた御朱印は以下の三つ。
圓光大師二十五霊場の御朱印。中央の墨書は「法然上人」。朱印は御詠歌のものと同じで、中央が「佛法僧寶」の三宝印、右上が「圓光大師廿五霊場第二十五番」、左下が「浄土宗総本山知恩院」。
勢至堂の御朱印。墨書は「本地 勢至菩薩」。中央の朱印は「総本山 知恩院 本地勢至堂之章」、右上は「知恩教院」、左下は「知恩院勢至堂」。
平成23年は法然上人の八百回大遠忌で、その記念の御朱印もありました。
中央の墨書は「法然上人」、その上は月影に法然上人の御影。中央の朱印は「法然上人八百回大遠忌」、左下は「浄土宗総本山知恩院」。
知恩院の参拝記
京都在住の畏友・導師飼主より五山の送り火に誘われたので、それに併せて浄土宗総本山・知恩院を参拝、徳川家康公四百回忌限定御朱印をいただいてきました。
徳川家は古くから浄土宗に帰依しており、家康も熱心な浄土宗の信者でした。馬印にも浄土宗の教えに基づく「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど。)」を用いたことはよく知られています。
知恩院が現在のような壮大な伽藍を誇るようになったのは、慶長8年(1603)徳川家康が知恩院を永代菩提所とし、境内の拡張と堂塔の建立を行ったことによります。
京都市営バスに乗って「知恩院前」下車、目の前にある総門をくぐって東に進むと、雄大な三門が見えてきます。
国宝の三門。高さ約24mの五間三戸二階二重門で、南禅寺の三門、東本願寺の御影堂門とともに京都の三大門に数えられます。「華頂山」の扁額は霊元天皇の筆と伝えられています。
石段を上ると巨大な御影堂があります…と思ったら、大修理のため覆い屋の中でした。
本来はこういう感じ。
あまり時間がなかったため、御影堂の修理工事期間、法然上人の御尊像が遷し祀られている集会堂(しゅうえどう)に参拝、御朱印所で御朱印をいただいた後、無料のシャトルバスで三門前へ戻りました。
そして夜は五山の送り火。
大文字。
左大文字と舟形。
左大文字をアップで。
コメント