「御朱印」という名称について(1)

 

 

内宮の御朱印

現在、「御朱印」といえば、たいてい神社仏閣に参拝した証としていただく印(と墨書)のことを指します。しかし、本来「御朱印」は神社仏閣の印に限定して使われた言葉ではありません。むしろ、昔は「御朱印」と呼ばなかっただろうと考えられるのです。

神社仏閣でいただく「御朱印」の起源をたどると江戸時代の納経帳、さらに遡れば六十六部廻国行者の納経請取状に行き着きます。これらを「御朱印」と呼んでいなかったことは何となく想像のつくことですが、そのあたりことを少し考えてみたいと思います。

神社仏閣でいただく印を御朱印と呼ぶのは、墨書の有無にかかわらず、紙面の中央に押す朱印(宝印)を中心的要素とすることに由来すると思われます。そこには、中央に押す印を御祭神や御本尊の象徴とする考え方があります。少なくとも、現代の多くの神社や寺院では、そういう意味を踏まえて押印、授与しているでしょう。また、そもそも印章というものが、個人や役職・団体等を象徴するものですから、朱印を御祭神や御本尊の象徴と受け止めるのはきわめて妥当だといえるでしょう。

ところが、古い納経帳を見ると、中央に朱印が押されていない例があります。四国八十八ヶ所や西国三十三所など、常時巡礼者を受け入れているところにも見られるので、当時、その寺院では中央の朱印を押さないのが標準だったと考えられます。これは、当時の納経帳において中央の朱印(宝印)が中心的な要素ではなかったことを暗示しています。

華厳寺の納経

 

文化10年(1813)西国33番・谷汲山華厳寺。印は左下の「執事」の署名のところに「華厳教寺」の朱印があるだけです。

恩山寺の納経

 

天保11年(1840)四国18番・恩山寺。右上に「四国第十八番」、左下に「恩山寺」の印があるのみ。

善通寺の納経

 

明治38年(1905)四国75番・善通寺。これも朱印は右上の「四国第七十五番」と左下の「讃岐國屏風浦善通寺」のみ。善通寺は比較的遅くまで中央の朱印を押さなかったようです。

また、菊の御紋の印を押している寺社もあります。勅願所であることを示しているのではないかと思います。

讃岐国分寺の納経

 

天保11年(1840)四国80番・讃岐国分寺。全国の国分寺は聖武天皇の勅願によって建立されました。

東寺の納経

 

同じく天保11年(1840)京都の教王護国寺(東寺)。ヘッダーの画像に使っているものです。これには御本尊を示す文言がありません。古い納経請取状の形式を残しているのではないかと思われます。

これらの場合、菊の御紋の印は寺社の権威を表すものであって、神仏を象徴しているものとはいえません。

このような例があることや、納経帳が「納経請取状」という一種の受領証に由来する(つまり略式の請取状である)ことから考えれば、もともと中央の朱印は不可欠の要素というわけだったわけではなく、装飾的な意味で押されていたとするのが妥当だと思われます。

墨書押印の形式が整っていく過程で、中央の墨書・朱印が御本尊・御祭神を示すように定型化されていったことにより、中央の朱印を神仏の象徴とする意識が共有されるようになったのでしょう。もちろん、もともと印章が個人や役職、団体の象徴とされていた歴史的背景が決定的な役割を果たしていることは間違いありませんが。

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