京都市東山区林下町401(Mapion/googlemap)
元大谷 崇泰院(そうたいいん)
正式名称:華頂山 崇泰院
通称:元大谷
御本尊:阿弥陀如来
創建年代:慶長8年(1603)
開基:竹村道清
所在地:京都市東山区林下町401
宗派:浄土宗 総本山知恩院塔頭
http://www.soutai-in.org/
【略縁起】
崇泰院は浄土宗総本山・華頂山知恩院の塔頭ですが、元は親鸞聖人の末娘・覚信尼が親鸞聖人の廟所として建立した「大谷廟堂」、後の大谷本願寺の跡にあることから「元大谷」の名があります。
弘長2年(1263)親鸞聖人が亡くなった後、遺骨は鳥辺野の北の「大谷」に葬られました。
文永9年(1272)親鸞聖人の末娘・覚信尼は、東国の門弟の協力を得て、吉水の北辺、現在の崇泰院の辺りに六角の廟堂を建立して改葬しました。これが「大谷廟堂」で、覚信尼とその子孫が代々「留守職」を務めることになりました。永仁3年(1295)には親鸞聖人の御影像を安置、以来「大谷影堂」と称するようになります。
第3代の覚如上人は大谷影堂の寺院化を図り、正和元年(1312)専修寺の寺号を名乗りますが、元亨元年(1321)頃に本願寺と改めました。当時は青蓮院の末寺という扱いでした。
応永22年(1415)第8代の蓮如上人が誕生。長禄元年(1457)法灯を継承すると、積極的な布教を展開し、近畿・東海・北陸へと教線を拡大しました。これが比叡山を刺激し、寛正6年(1465)比叡山西塔の衆徒が本願寺を破却、蓮如は近江に退去しました(寛正の法難)。
その後、跡地には井上願知という人物が堂宇を建立し、大谷道場と称して親鸞聖人の墓所を護持しました。
慶長8年(1603)徳川家康は知恩院を徳川家の香華寺と定め、伽藍の拡張工事を行いました。これに伴い、親鸞聖人の廟堂は鳥辺野延年寺山(現在の大谷本廟)に移されました。
旧地には知恩院の塔頭・崇泰院が建立されました。開基は知恩院再建普請奉行の竹村道清で、院号は道清の戒名「崇泰院殿勝誉道清居士」に因みます。
明治になると一時荒廃しますが、本山より再建公認役が任命され、明治31年(1898)に庫裏、同34年(1901)には本堂が再建されました。
崇泰院の御朱印
崇泰院の御朱印。墨書部分はスタンプで、「親鸞聖人旧廟地」とあります。右上は「奉拝」。中央の朱印は「佛法僧寶」の三宝印、右上の印は白抜きで「元大谷親鸞聖人御廟地」、左下は「華頂山崇泰院之印」。
なお、御朱印をいただいた平成23年時点では自由に参拝できましたが、公式サイトを確認したところ、現在は一般の拝観謝絶で、15人以上の団体のみ事前申し込みを受け付けているようです(詳しくは公式サイトを参照してください)。御朱印もこれに準じるものと思います。
崇泰院の参拝記
壮大な知恩院の三門から北へ100mほど行くと、知恩院の塔頭の一つである崇泰院があります。親鸞聖人の廟所が営まれた大谷廟堂の故地にあることから「元大谷」の通称があります。
今は京都駅の北に壮大な伽藍を誇る東西本願寺ですが、元は大谷廟堂を寺院に改めて本願寺と称したのが起源です。寛正6年(1465)に寛正の法難で当地を離れるまでの約200年間、本願寺はこの地にありました。蓮如上人もこの地で誕生しています。
崇泰院は竹村丹後守九兵衛道清によって創建されました。道清は徳川家康の家臣で、慶長8年(1603)から行われた知恩院の拡張工事の再建普請奉行を務めた人物です。
境内には親鸞聖人の墳墓や蓮如上人の産湯の井戸が残っています。
崇泰院の山門。入口には「大谷本願寺故地」、門の脇には「蓮如上人御誕生之地」の石柱が建っています。
本堂。明治34年(1901)の再建。
気さくなご住職で、御朱印をお願いしたところ、寺の由緒来歴などについていろいろ話してくださいました。また、本堂や境内を拝観していくように勧めてくだったので、ご厚意に甘えることにしました。
蓮如上人産湯之井戸。
親鸞聖人の墳墓と御杖の逆杉(二代目)。境内奥の石段を上ったところにあります。
親鸞聖人の墳墓。玉垣の中に小さな五輪塔があります。因みに親鸞聖人の遺骨を奉安した廟所は、西本願寺の大谷本廟や東本願寺の大谷祖廟をはじめ、各派本山が立派な御廟を営んでいます。
御杖の逆杉。親鸞聖人が越後へ流罪となった折に使っていた杉の杖が逆さに根付いたと伝えられます。現在の杉は二代目で、初代は枯死して根株だけが残っています。
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