私の御朱印拝受は四国八十八ヶ所から始まりました。このブログやサイトでも取り上げることが多いため、各寺社の歴史や古い納経帳を調べることも多いのですが、そこで気づいたり考えたりしたこともいろいろあります。そこで、少し御朱印を離れて四国八十八ヶ所についての考察をしてみたいと思います。
まずは四国八十八ヶ所の成立について考えてみたいのですが、その手始めとして、四国八十八ヶ所の「八十八」という数にはどういう意味があるのか、ということから始めようと思います。最初に結論だけ言っておくと、私は「八十八」という数に深い意味はないと考えます。
「八十八」についてのさまざまな説
「八十八」という数はどういう意味があるのかということについて、よく見かける説としては、
①人間には八十八の煩悩があり、四国八十八ヶ所を巡ることで断滅できる。
②男42歳、女33歳、子ども13歳の厄年を合計した数。
③「三十五仏名礼懺文の「三十五仏」と「観薬王薬上二菩薩経」の「五十三仏」を合わせた数。
④「米」を分解したもので五穀豊穣を祈るもの。
⑤「八」が末広がりで縁起がよいから。
などがありますが、定説はありません。
それら諸説があるうちで、四国霊場会が採用しているのは「見惑八十八使〔けんわく はちじゅうはっし〕」説です。「使〔し〕」は煩悩の意味で「見惑の八十八種の煩悩」という意味になります。四国八十八ヶ所を巡拝することによって、88の見惑を断滅することができるというものですが、「見惑」というと難しいので一般には「八十八の煩悩」というのでしょう。
一般には煩悩というと除夜の鐘の「百八煩悩」を思い浮かべますが、見惑八十八使は百八煩悩の中に含まれます。
四国霊場会がこの説を採るのは、四国遍路の父と呼ばれる真念法師が著した『四国徧礼功徳記』がこの説を紹介しているためだと思われます。『功徳記』には次のように書いています。
四国中名所旧跡多い中に、礼所八十八と定めることについて、ある人の言うには、(仏教の真理である)苦集滅道の四諦の中の集諦に「見思の惑(見惑と思惑)」というものがある。この煩悩が三界生死の苦果を招き集める。この見惑というものに八十八使あり、この数をとって八十八ヶ所と定め、これを巡礼するうちに彼の見惑を断滅することによる数だという。(筆者意訳)
※集諦…苦の原因は煩悩であるという真理。
「見惑八十八使」と「百八煩悩」
「見惑八十八使」を詳しく見てみます。ついでに百八煩悩についても説明しますが、かなりややこしいので関心のある人以外は読み飛ばしてください。
煩悩にはすべての煩悩の根本となる「根本煩悩〔こんぽんぼんのう〕」と根本煩悩に付随して起こる「随煩悩〔ずいぼんのう〕」があります。根本煩悩は随眠〔ずいめん〕ともいいます。
根本煩悩には以下の6つがあります。
1.貪〔とん〕…むさぼり。貪欲。貪愛。
2.瞋〔しん〕…怒り。腹立ち。憎み怒ること。
3.癡〔ち〕…無明。愚かな心。ものの道理がわからない。迷い。
4.慢〔まん〕…慢心。他人に対しておごり高ぶる心。
5.見〔し〕…間違った見解。間違ったことを正しいと思い込み、正しい道理を知らない。
6.疑〔ぎ〕…疑い。真理(仏法)を疑う心。
6つの煩悩のうち「見」を5つに分け(「五見〔ごけん〕」という)、合わせて10となります。
1.有身見〔うしんけん〕…自分の肉体や心を「われ」であるとか「わがもの」と執着する見解。
2.辺執見〔へんしっけん〕…極端に偏った見解。「断見〔だんけん〕」(死んだらまったくの無になる)と「常見〔じょうけん〕」(死んでも存在し続ける)の二つ。
3.邪見〔じゃけん〕…因果の道理を認めず、罪や功徳、善悪の果報はないという見解。
4.見取見〔けんしゅけん〕…誤った見解に執着して、それが最高の真実であるとする見解。
5.戒禁取見〔かいごんしゅけん〕…誤った教えに基づく戒律を正しいもの、悟りに導くものとして執着する見解。
以上の10の煩悩を「見惑〔けんわく〕」と「思惑〔しわく〕」に分け、さらに三界(欲界・色界・無色界)に分けます。
「見惑」は誤った教えや見解のために起きる後天的な煩悩で、見道(仏教の真理である「四諦」を悟る)によって断ずることができます。知情意のうち理知的な側面に関わります。
「思惑」は「修惑〔しゅわく〕」ともいいますが、現象的な事物に迷う先天的な煩悩で、修道(見道で悟った四諦の真理について、さらに具体的な事柄で修練を繰り返す段階)によって断ずることができます。知情意のうち情と意に関わります。
見惑には10の煩悩すべてが含まれます。これを欲界・色界・無色界の三つに分け、さらに三界それぞれで四諦(苦諦〔くたい〕・集諦〔じったい〕・滅諦〔めったい〕・道諦〔どうたい〕)を見通すことで断ち切られる煩悩があります。
ただし、欲界には10の煩悩すべてがありますが、色界・無色界には〈瞋〉がないとされます。また、五見のうち〈有身見〉と〈辺取見〉は四諦のうちの苦諦のみに関わります。また「戒禁取見」は苦諦と道諦のみに関わります。
その結果、見惑は欲界32、色界28、無色界28で合計88となります。これが「見惑八十八使」です。
ややこしいので一覧表にしておきます。
欲界 | ||||
---|---|---|---|---|
苦 | 集 | 滅 | 道 | |
貪 | ○ | ○ | ○ | ○ |
瞋 | ○ | ○ | ○ | ○ |
癡 | ○ | ○ | ○ | ○ |
慢 | ○ | ○ | ○ | ○ |
疑 | ○ | ○ | ○ | ○ |
有身見 | ○ | - | - | - |
辺執見 | ○ | - | - | - |
邪見 | ○ | ○ | ○ | ○ |
見取見 | ○ | ○ | ○ | ○ |
戒禁取見 | ○ | - | - | ○ |
計 | 32 |
色界 | ||||
---|---|---|---|---|
苦 | 集 | 滅 | 道 | |
貪 | ○ | ○ | ○ | ○ |
瞋 | - | - | - | - |
癡 | ○ | ○ | ○ | ○ |
慢 | ○ | ○ | ○ | ○ |
疑 | ○ | ○ | ○ | ○ |
有身見 | ○ | - | - | - |
辺執見 | ○ | - | - | - |
邪見 | ○ | ○ | ○ | ○ |
見取見 | ○ | ○ | ○ | ○ |
戒禁取見 | ○ | - | - | ○ |
計 | 28 |
無色界 | ||||
---|---|---|---|---|
苦 | 集 | 滅 | 道 | |
貪 | ○ | ○ | ○ | ○ |
瞋 | - | - | - | - |
癡 | ○ | ○ | ○ | ○ |
慢 | ○ | ○ | ○ | ○ |
疑 | ○ | ○ | ○ | ○ |
有身見 | ○ | - | - | - |
辺執見 | ○ | - | - | - |
邪見 | ○ | ○ | ○ | ○ |
見取見 | ○ | ○ | ○ | ○ |
戒禁取見 | ○ | - | - | ○ |
計 | 28 |
参考までに、思惑についても整理しておきます。
6つの根本煩悩のうち〈見〉と〈疑〉は理知的な側面に関わる煩悩であり、真理を見通すことによって断ち切られます。そのため思惑は〈貪〉〈瞋〉〈癡〉〈慢〉の4つのみとなります。さらに〈瞋〉は欲界のみで色界・無色界にはないとされますから、思惑は欲界4、色界3、無色界3、合計10となります。
こちらも表にしておきます。
欲界 | 色界 | 無色界 | |
---|---|---|---|
貪 | ○ | ○ | ○ |
瞋 | ○ | - | - |
癡 | ○ | ○ | ○ |
慢 | ○ | ○ | ○ |
見 | - | - | - |
疑 | - | - | - |
計 | 10 |
見惑88と思惑10を合わせて「九十八随眠〔きゅうじゅうはち ずいめん〕」(98の根本煩悩)といいます。これに「十纒〔じってん〕」(修行の妨げとなる10種の随煩悩)を加えて百八煩悩となるわけです。
以下、十纒を列記しておきます。
1.無慚〔むざん〕…はじらいのないこと。自分自身に対して、罪を罪と恥じないこと。
2.無愧〔むき〕…他人に対して恥じ入る心のないこと。破廉恥。
3.嫉〔しつ〕…ねたみ。嫉妬。
4.慳〔けん〕…ものおしみ。
5.悔〔け〕…後悔する心(後悔のない心は心身を軽くし、瞑想が深まる。後悔する心は瞑想を妨げる)。
6.眠〔みん〕…睡眠。この心が起こると心が暗くなり、身体が自由でなくなって、瞑想に入れなくなる。
7.掉挙〔すいこ〕…心が高ぶって静まらず、騒がしく浮動する。
8.惛沈〔こんじん〕…心が沈んで、ふさぎ込むこと。
9.忿〔ふん〕…自分の思い通りにならない対象に対して怒りの心を起こすこと。
10.覆〔ふく〕…自分の犯した罪を覆い隠す心。
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ><仏教の思想> (角川ソフィア文庫)
「八十八」という数に深い意味はないのではないか
さまざまな説がある「八十八」という数ですが、「八十八」という数字に深い意味はないのではないかと考えるようになりました。強いて言えば「語呂がいいから」というところでしょうか。
これは四国八十八ヶ所の成立について考えているうちに気づいたことです。
四国八十八ヶ所というのは、もともと札所は固定されておらず、巡拝の対象となる寺社も88より多かっただろうと考えられています。その中から88の寺社が選ばれ、札所として固定されたというわけです。時期についてはいろいろな説があります。
元は札所が固定されておらず、どこかの時点で88ヶ所に限定されたとすることについては私も基本的には賛成です。しかし、いきなり88ヶ所の札所が選ばれたわけではなく、まず85ヶ所程度の「大師御定ノ札所」(澄禅大徳の『四国辺路日記』)が成立したと考えます。その後、語呂がいいので「四国八十八ヶ所」という呼び方ができ、「八十八ヶ所」という呼称に合わせて札所の数が調整されのでしょう。
つまり、「八十八」という数字に意味があって88の札所が選ばれたわけではなく、たまたま88に近い数の札所が固定され、語呂のいい「八十八ヶ所」という呼び方が定着したと考えるわけです。
次回は、最初から「八十八」の札所が選ばれたのではなく、85ヶ所程度の札所が先に成立したのだと考える理由について説明します。
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