大垣八幡神社

岐阜県大垣市西外側町1-1 [Mapion|googlemap]

大垣八幡神社

大垣八幡神社(おおがきはちまんじんじゃ)
正式名称:八幡神社
御祭神: 応神天皇 神功皇后 比咩大神 /合祀:大山咋神
創建年代: 建武元年(1334)
例祭:5月13日・14日
社格等:旧県社
http://ogaki80003.or.jp/

【御由緒】
かつて大垣市中心部は大井庄という東大寺の荘園でした。天平勝宝8年(756)聖武天皇によって施入されたと伝えられます。大垣八幡神社は元弘・建武の頃(1331~36)一説には建武元年(1334)大井庄十八郷の総鎮守として東大寺の鎮守・手向山八幡宮を勧請したものです。

初めは藤江村のサイカチの森(現在の大垣市藤江町)に祀られていましたが、宝徳3年(1451)遮那院乗済により現社地に遷座、以来、遮那院が別当として奉仕しました。ここにはもともと稲荷神社が祀られていましたが、八幡宮を本社とし、左(東方)に地主神の稲荷社、右(西方)には新たに天満宮を祀って三社としました。

天文15年(1546)斎藤道三の兵火により社殿・神宝など全焼しました。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の際に当社の神宝である粟田口吉光の刀が紛失しましたが、足軽の左平太というものが霊夢を見、赤坂の飯沼某の家でこれを取り戻して奉納したといいます。

慶長11年(1606)大垣城主・石川康光がこの吉光の刀を召し上げ、江戸幕府に献上しました。ところがその後災難が頻発したため、驚いた康光は政俊の刀を奉納して罪を謝しました。それでも神の怒りは解けず、遂に翌12年(1607)康光は乱心して卒去してしまいました。

嫡男・忠義は幼少のため家督を継げず、康光の父・家成が幕府に訴え出たものの聞き入れられませんでした。家成は神慮が未だ解けざることを畏れ、慶長13年(1608)三社の社殿を造営しました。この時、兵乱後初めて拝殿・幣殿・舞殿が造られたといいます。

慶長15年(1610)幕府より朱印地10石を賜りました。

慶安元年(1648)大垣藩主・戸田氏鉄が社殿を再建。これを喜び、十八郷の氏子が3基の神輿を寄進、大垣10ヶ町が10基の山を造って曳き回しました。これが大垣まつりの始まりとされます。「大垣祭の軕行事」は国の重要無形文化財に指定され、平成28年(2016)にはユネスコの無形文化遺産に登録されました。

明治元年(1868)神仏分離により別当の遮那院雲照は復飾して大垣八幡宮の神職となり、遮那院は廃寺となりました。翌2年(1869)大垣町と十八郷の氏子の寄進により社殿を造営しました。明治6年(1873)郷社に列格、同12年(1879)県社に昇格。

昭和20年(1945)米軍の空襲により社殿が焼失しましたが、同26年(1951)本殿、同29年(1954)拝殿が再建されました。

大垣八幡神社の御朱印

御朱印は授与所にていただきました。

大垣八幡神社の御朱印

大垣八幡神社の御朱印。中央の朱印は「八幡神社」。

全国八幡神社名鑑 (別冊歴史読本―神社シリーズ (99))全国八幡神社名鑑 (別冊歴史読本―神社シリーズ (99))

大垣八幡神社の参拝記

平成27年(2015)年末の帰省時、途中下車をして参拝しました。

東参道の鳥居

大垣八幡神社は大垣城の北西に鎮座。大垣駅から10分も歩かないうちに境内東側の入口に着きます。ですが、せっかくなのでもう少し歩いて正面参道へ向かいました。

一の鳥居

一の鳥居。

自噴井戸

境内に入ると、右手に自噴井戸があります。水を汲む人が次々に訪れていました。

二の鳥居

二の鳥居。

天満宮・稲荷社

二の鳥居の手前左側に天満宮が、二の鳥居を通り過ぎた右側に同じく大福稲荷神社が鎮座しています。もともと八幡社の左右に鎮座していましたが、戦後の再興時に現在の位置に遷されたそうです。大福稲荷神社は八幡社遷座以前から祀られていた地主神です。

出雲神社

他にも大きな境内社があります。八幡神社の右に鎮座する出雲神社。第二次大戦後、町の復興と繁栄を祈って出雲大社と美保神社から御分霊を勧請しました。本殿は大社造です。

廣瀬神社・龍田神社

廣瀬神社・龍田神社。寛政2年(1790)藩主・戸田氏教により大和国の廣瀬大社と龍田大社から勧請されました。

大垣龍神社は文久3年(1860)火災除けのために江戸の大垣藩邸に祀られたもので、元は出雲龍蛇社と称しました。明治維新後、藩邸を引き払った際に遷されたといいます。

拝殿

八幡神社の拝殿。大きな唐破風の向拝が印象的です。

本殿

本殿。端正な姿をしています。

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