春秋の彼岸に一番近い戊の日を「社日」といいます。もともと古代中国の土地神を祀る祭日でした(中国では「社」は土地神を意味する)。我が国でも古くから農作業の節目とされ、社日講の祭が行われたり、社日参りと称して地域の神社を巡拝する風習がありました。
特に愛媛県の松山地方では「八社参り」と称し、松山城下周辺の8社の八幡宮を巡拝する習慣がありました。この8社の八幡宮を「松山八社八幡」と称します。
松山八社八幡とは
松山八社八幡とは以下の8社の八幡宮です。
一番 湯月八幡宮(伊佐爾波神社)
二番 桑原八幡宮(桑原八幡神社)
三番 日尾八幡宮(日尾八幡神社)
四番 正八幡宮(雄郡神社)
五番 日招八幡宮(日招八幡大神社)
六番 山崎八幡宮(朝日八幡神社)
七番 帰熊八幡宮(還熊八幡神社)
八番 勝山八幡宮(阿沼美神社境内社 勝山八幡神社)
伝承によれば、延久5年(1073)伊予守として赴任した源頼義の命により、河野親経が八社八幡を定めたとされます。
室町時代中期に成立したとされる『予章記』に、河野親経が頼義の命を受けて国内に49ヶ所の薬師堂と8ヶ所の八幡宮を建立したという記述があります。とはいえ、この時建立された八幡宮が現在のどの神社に当たるかは明らかでなく、これが松山八社八幡の直接の起源というわけではないようです。
ただ、古くから伊予国においては頼義ゆかりの八社八幡の伝承があったことは間違いなく、頼義ゆかりの八社八幡であることを主張する八幡神社がいくつもあります。さらに時代を経るうちに数を増やして一八社あるいは三八社の八幡、道前・道後の八社八幡といった伝承もできました。
西条市の綾延神社でいただいた「伊予国 八社八幡宮参りの由来について」によると、八社八幡宮が特定の八幡宮を指すようになるのは江戸時代以降のことで、その初見が元禄年間(1688~1704)の頃の成立とされる『松山八幡八社略談(通称:八社略談)』です。これに記されているのが松山八社八幡で、松山城を築いた加藤嘉明によって定められたされます。
『八社略談』には既に一番から八番までの番号が付けられているため、元禄の頃には八社八幡の巡拝が行われていたことが推測できます。しかし、八社八幡参りが周辺部にも広がっていくと、村の近くの八幡宮に上記の八幡宮を加えた独自の八幡参りを設定することも多かったそうです。
このようにして松山地方の八社八幡巡りは非常に盛んとなり、春秋の社日の風物詩となっていたそうですが、第二次大戦後に急速に衰え、現在ではほとんど見られなくなったとのことです。また、かつては八社の御朱印を揃えることができましたが、近年、御朱印の対応を取りやめる神社があり、6社しか拝受できないようです。
参拝の順路
松山城の北東に鎮座する伊佐爾波神社(湯月八幡)を一番社とし、時計回りに桑原八幡、日尾八幡と巡拝、松山城を一周するように設定されています。
七番社の還熊八幡から八番社の勝山八幡へは南西へ後戻りするようになっていますが、これは明治の初めに勝山八幡が阿沼美神社境内に遷座したためです。江戸時代には城山の東麓、今市町(現在の喜与町)の三宝寺境内に鎮座しており、還熊八幡神社からは南東に進むようになっていました。
ただ、実際には必ずしも伊佐爾波神社から始めたわけではなく、居住地に近いところから始めたと思われます。
一番 湯月八幡宮(伊佐爾波神社)
■伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)
旧称:湯月八幡宮
御祭神:足仲彦尊 気長足姫尊 誉田別尊 市杵島姫尊 湍津姫尊 田心姫尊
社格等:式内社(小) 旧県社
鎮座地:愛媛県松山市桜谷町173
社伝によれば、仲哀天皇(足仲彦尊)と神功皇后(気長足姫尊)が道後温泉に行幸した際の行宮跡に創建されました。伊佐爾波の名は沙庭を立てて天神の勅を受け奉ったことに因むと伝えられます。延喜の制では小社に列しました。
中世になると湯月八幡宮と称されるようになりました。湯築城を本拠とした伊予国の守護・河野氏の崇敬を受け、道後七郡の総鎮守とされました。慶長8年(1603)松山城主となった加藤嘉明は社殿の再建や社領の寄進をしています。
その後、松山藩主となった松平(久松)氏も当社を深く崇敬しました。特に3代藩主・松平貞長は江戸城での競射に際して当社に祈願、神教によって大いに美名を顕しました。貞長はこれに感謝し、石清水八幡宮に倣った現在の社殿を造営したと伝えられます。この社殿は昭和31年(1956)国の重要文化財に指定されました。
御朱印は授与所にていただけます。
平成28年にいただいた御朱印。中央の朱印は三つ巴の神紋。右上の印は「延喜式内社」、左下は「伊豫國伊佐爾波神社」。
二番 桑原八幡宮(桑原八幡神社)
■桑原八幡神社(くわばらはちまんじんじゃ)
旧称:桑原八幡宮
御祭神:誉田別尊 足仲彦尊 息長足姫尊 姫大神 大山積神 雷神 高龗神
社格等:旧郷社
鎮座地:愛媛県松山市畑寺町440
創建年代は詳らかでありませんが、桑原村古宮に姫大神を祀ったことに始まるとされます。貞観元年(859)八幡宮を合祀、延久年間(1069~73)源頼義によって当国八社八幡に定められ、寛治2年(1088)畑寺村の現在の地に遷座しました。
武門の崇敬篤く、中世には領主の河野氏によって社殿の再建が行われました。江戸時代になると、万治2年(1659)松山藩主・松平定行が隣接する東野村に別荘を建て、当社を祈願社としました。
明治の初年に郷社に列格。昭和46年(1971)三島神社を合祀。そのため、社前の社号標には桑原八幡神社と三島神社の名が併記され、社殿の幕には桑原八幡神社の三つ巴と三島神社の折敷に縮み三文字の神紋を染め抜いています。
御朱印は平成30年時点で対応していません。平成10年代の半ば頃までは対応していたようで、今はなくなった御朱印サイトで拝見したことがあります。
三番 日尾八幡宮(日尾八幡神社)
■日尾八幡神社(ひおはちまんじんじゃ)
旧称:日尾八幡宮 日王八幡宮 久米八幡宮
御祭神:応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 宗像三毘売神 伊予比売命
社格等:旧県社
鎮座地:愛媛県松山市南久米町2
社伝によれば、天平勝宝4年(752)孝謙天皇が慧明上人(四国49番浄土寺の開山)に勅し、宇佐八幡宮より御分霊を勧請して久米八幡宮と称したことを創祀とします。天平神護元年(765)勅により社殿の造営を始め、翌2年(766)完成、大神朝臣久米麻呂と高市古麻呂を斎主としました。
中殿に祀られる伊予比売命は伊予比古命(伊予豆比古命)と夫婦神で、元はともに久米郡古矢野神山(松山市小野町)に祀られていたとされます。ところが洪水のため、伊予比売命の御神体は当地へ流れ着いて久米八幡に合祀され、伊予比古命の御神体は天山の縦淵まで流されて伊豫豆比古命神社に祀られるようになったと伝えられています。
神護景雲3年(769)称徳天皇が勅使を遣わして神衣を奉納。宝亀7年(776)と同9年(778)には光仁天皇が幣帛を奉納しました。文治年間(1185~89)には源頼朝が社殿を再興、承久年間(1219~21)河野通信が改築しました。天正13年(1585)河野氏の滅亡により衰亡しましたが、慶長年間(1596~1615)松山城を築いた加藤嘉明が八社八幡の一社として武運長久の祈願所とし、その後の歴代松山藩主も松山城の鎮護として崇敬しました。
平成28年にいただいた御朱印。朱印は「日尾八幡神社」。
四番 正八幡宮(雄郡神社)
■雄郡神社(ゆうぐんじんじゃ)
旧称:正八幡宮 雄群神社
御祭神:天宇受売命 品陀和氣尊 帯中日子尊 息長帯姫尊
社格等:国史見在社 旧県社
鎮座地:愛媛県松山市小栗3-3-19
『三代実録』に見える雄郡〔おぐり〕神に比定される国史見在社。創建の年代は詳らかでありませんが、天宇受売命を祀ったことを創祀とし、用明天皇元年(586)宇佐八幡宮より八幡三神を迎えて合祀したと伝えられます。元慶2年(878)従五位下を奉授されました。
中世には正八幡宮と呼ばれるようになった。かつては八町四方という広大な境内を誇り、鳥居は現在の社地より遙か西にあったといいます。しかし慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の隙を突いて毛利氏の軍勢が襲来し、河野氏の旧臣が呼応して兵を挙げた三津刈屋口の戦いの兵火にかかり、社殿・宝物・古文書等が灰燼に帰しました。その後、境内の多くも水田となって神社の手を離れたといいます。
慶長19年(1614)加藤嘉明が社殿を再興。その後、松山藩主となった松平(久松)氏も深く崇敬しました。
明治の初め、社号を正八幡宮から雄群〔おぐり〕神社に改称、さらに明治35年(1902)旧記に基づいて雄郡神社と改めました。
平成22年にいただいた御朱印。朱印は「雄郡神社之印」。
五番 日招八幡宮(日招八幡大神社)
■日招八幡大神社(ひまねきはちまんだいじんじゃ)
旧称:日招八幡宮 日招八幡神社 伊豫疱瘡宮
御祭神:市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命 品陀和気命 息長帯姫命
社格等:旧郷社
鎮座地:愛媛県松山市保免西1-4-3
社伝によれば、崇峻天皇2年(589)小千宿禰益躬(越智益躬)が筑紫の宗像大社から宗像三女神を勧請し、門嶋宮と称しました。大同年間(806~10)大納言藤原雄友が疱瘡を患い、当社に祈願して快癒したことから伊予疱瘡宮と呼ばれ、崇敬されたといいます。
元慶2年(878)玉井大連正信・甘田信濃守紀泰朝らが石清水八幡宮を勧請・合祀し、封戸・神田を寄進しました。
元暦元年(1184)佐々木四郎高綱が伊予に入国した時、砥部・荏原の二城主と合戦となりました。決着がつく前に日が没しようとしましたが、高綱は地理に暗く、夜戦で敗れることを憂い、当社で祈願して軍扇で入り日を招きました。すると太陽が留まり、勝利を得ることができました。これによって日招八幡宮と改称し、社領と武具を奉納したといいます。
平成12年(2000)火災により社殿が焼失、平成27年(2015)に再建されました。
私が参拝したのは平成26年で、まだ社殿は再建されて織らず、仮殿が設けられていました。
平成26年にいただいた御朱印。カブラに社殿と社号標を描いたスタンプですが、他ブログを見ると火焔宝珠と一般的な社印をいただいた方もいらっしゃるようです。
六番 山崎八幡宮(朝日八幡神社)
■朝日八幡神社(あさひはちまんじんじゃ)
旧称:山崎八幡宮 朝日八幡大神社
御祭神:品陀和気命 帯仲津彦命 息長帯比売命 市杵島姫命 多紀理比売命 多岐津比売命
社格等:旧郷社
鎮座地:愛媛県松山市南江戸5-1569
持統天皇の御代(690~97)仲哀天皇・神功皇后の行宮跡に足煩地主神を祀り、沼戸明神と称したと伝えられます。後に山城国乙訓郡山崎の山崎八幡宮(離宮八幡宮)を勧請し、山崎八幡宮と改めました。
元弘3年(1333)河野通綱が社領を寄進。承和年間(1345~50)兵火にかかり、延文6年(1361)河野通尭の命により平範有が現在の社地に社殿を再建しました。応永19年(1412)にも河野通成が社殿を改築。慶長8年(1603)松山城主の加藤嘉明が当社を八社八幡の一社に選び、崇敬しました。
松山藩主が松山城から西を見ると、当社社殿の屋根瓦が朝日を受けて輝いていたことから朝日八幡宮と改称するよう勧められました。一般には旧来の山崎八幡宮の名で呼ばれていましたが、明治3年(1880)正式に朝日八幡大神社と改称、更に明治39年(1906)朝日八幡神社と改められました。
離宮八幡宮からの勧請を伝える珍しい八幡宮ですが、当地はかつて荏胡麻の大産地で、大山崎神人・油座と深い関わりがあったようです。
平成26年にいただいた御朱印。上の印は横に「神寶」、縦の文字は判読できません。下の印は「朝日八幡神社」。
七番 帰熊八幡宮(還熊八幡神社)
■還熊八幡神社(かえりぐまはちまんじんじゃ)
旧称:帰熊八幡宮
御祭神:品田別命 帯中彦命 息長帯姫命 迦具都知命 菅原道真 素盞嗚尊
旧社格:旧村社
鎮座地:愛媛県松山市山越3-3-2
社伝によれば、貞観年間(859~77)山城国の石清水八幡宮から御分霊を勧請し、領主の河野氏が祈願所として崇敬しました。天正18年(1590)胸形宮・矢取宮を合祀、さらに祇園社・天満宮を合祀したといいます。
慶長5年(1600)領主・加藤嘉明が関ヶ原の合戦に従軍した隙に毛利軍が来襲、呼応して挙兵した河野氏の遺臣とともに当社に立て籠もりました。しかし留守を預かる加藤外記・佃十成らに撃退され、当社は戦火にかかって社殿・記録類を焼失してしまいました。
慶長6年(1601)加藤嘉明は当社を現社地に遷して再興、八社八幡の一社として崇敬しました。
「還熊」という社名に因み、旅行する人は当社に参拝すると恙なく帰ってくることができると信仰する人が多かったと伝えられます。松山藩主も参勤交代に際しては幣帛を奉り、道中の安全を祈願したといいます。明治以降は、軍人の家族など無事の帰還を祈願するものが多かったそうです。
平成26年にいただいた御朱印。朱印は「還熊八幡神社」。
ただし、ネット上の情報によれば、平成28年1月時点では御朱印の対応をしていないようです。
八番 勝山八幡宮(阿沼美神社末社 勝山八幡神社)
■阿沼美神社末社 勝山八幡神社(かつやまはちまんじんじゃ)
旧称:勝山八幡宮
御祭神:品陀和気命
社格等:(旧県社・阿沼美神社末社)
鎮座地:愛媛県松山市味酒町3-1-1
創建に関しては詳らかでありませんが、元は勝山(城山)の頂に鎮座していました。
伝えられるところでは、加藤嘉明が松山城を築くに当たり、普請奉行の足立重信と助役の山下八兵衛が勝山の調査に赴くと、山頂に社がありました。足立が薪を拾っている老人に社の名を尋ねたところ、言葉が不明瞭で「勝山八幡」と答えたのが「勝たずの八幡」と聞こえました。
足立は「勝たずの八幡とは不吉なので取り壊すがよい」と言いましたが、山下が「敵がこの城に攻め寄せても勝たずと考えれば吉相である。当山に鎮座する神をみだりに取り壊しては神罰の恐れがある」と言ったので、北の麓に遷すことになりました。
後に蒲生忠知によって今市町(勝山の東麓、現在の喜与町)の三宝寺境内に遷座、さらに明治8年(1875)阿沼美神社境内に遷されました。
御朱印は阿沼美神社の社務所でいただけます。
平成26年にいただいた御朱印。朱印は「勝山八幡神社之印」。
川中八社八幡
八社八幡参りは道前地方でも行われています。西条市西部の旧東予市・丹原町地域に鎮座する八幡宮八社を巡拝するもので、中山川と大明神川に挟まれた地域にあることから「川中八社八幡」と呼ばれます。
綾延神社でいただいた「伊予国 八社八幡参りの由来について」によれば、江戸時代から明治初期の神社記録には社日祭を行った記録はあるものの、八社八幡や八社参りに関する記述は見られないため、明治年間に松山八社八幡にならって設定されたのだろうということです。
■川中八社八幡
1.高知八幡神社 愛媛県西条市丹原町高知甲729-1
2.護運玉甲々賀益八幡神社(甲賀八幡神社) 愛媛県西条市上市460
3.保内八幡神社 愛媛県西条市円海寺172-1
4.鶴岡八幡神社 愛媛県西条市北条544
5.徳威神社(旧称:勅使八幡宮) 愛媛県西条市吉田235-3
6.綾延神社(旧称:綾延八幡宮) 愛媛県西条市丹原町田野上方1622-1
7.福岡八幡神社 愛媛県西条市丹原町今井1
8.湯座八幡大神社 愛媛県西条市丹原町徳能甲616
参拝の順番は設定されていませんが、八社が円を描くように鎮座しているので、居住地に近い神社から巡るものと思われます。現在でも八社参りの習慣は健在で、天候がよければ100名から200名ほどの巡拝があるそうです。
御朱印については、綾延神社・徳威神社・鶴岡八幡神社で拝受、高知八幡神社・保内八幡神社・福岡八幡神社では対応していないとのこと、甲賀八幡神社・湯座八幡大神社は未確認です。
コメント
[…] 社も荒廃するが、慶長年間(1596~1615)加藤嘉明が松山城を築き、近郷の八幡宮八社(松山八社八幡)を選んで武運長久を祈願した際、当社もその一社となり、以来、松山藩歴代藩主の […]
[…] 八社八幡を定めた際には、その一番社とされている。 […]
[…] 阿沼美神社の境内社・勝山八幡神社は、松山八社八幡の八番社で、元は勝山の山頂に鎮座していた。御祭神は品陀和気命。 […]