御朱印の起源は六十六部廻国聖の納経帳・納経請取状なのですが、浄土真宗の御朱印と日蓮宗の御首題については起源が異なっています。
真宗の御朱印の起源
真宗は念仏以外を雑行雑修とし、納経なども行わなかったため、六十六部とは相性がよくなかったようです。その点、同じように念仏のみを正行としながら、それ以外を教条主義的に排斥することなく、六十六部についても浄土三部経の納経として対応した浄土宗とは違っています。そのため、浄土真宗の御朱印の起源を六十六部の納経帳に求めることはできません。
本願寺派や大谷派では、御朱印は納経に起源があり、納経に価値を置かない真宗は御朱印を授与しないのが伝統であるかのように言っていますが、実際には他宗とそれほど変わらない時期から、納経とほぼ同様の御判を授与していました。
真宗の御朱印は参拝記念の刷り物、現代でいう「参拝の栞」やパンフレットのようなものを起源としています。これが他宗の納経帳の影響を受け、帳面を持参して御判をいただくという形に変化したようです。
そのため、江戸時代の真宗の順拝帳では、古い形の名残として刷り物を貼る形の寺院の割合が比較的多く、「奉納経」等の文言を入れないなどの特徴があります。「宝物を略す」等の文言を入れる例があるのも、上の画像のような刷り物がもともとの形であったことを示しています。
そういう歴史的事実を踏まえれば、御朱印をしないというのが真宗の伝統とは言えません。また、納経に価値を置かないから御朱印をしないというのも、そもそも納経を起源とせずに始まった真宗の御朱印の歴史から見て無意味です。
なお、六十六部との相性はよくなかったと思われる真宗ですが、江戸時代の六十六部の納経帳には真宗寺院の御判もあり(ただし、形式は真宗らしく「納経」等の文言がありません)、それほど教条主義的な対応をしていたわけではなさそうです。
真宗では江戸時代の順拝帳以来、他宗と変わらず御朱印を授与してきた歴史があります。そういう意味では、むしろ御朱印を否定する現代の本願寺派や大谷派のほうが特殊だといえるでしょう。
日蓮宗の御朱印と御首題
御朱印と似たものに日蓮宗の「御首題」があります。「南無妙法蓮華経」のお題目を書き、朱印を押すというもので、見た目もほぼ御朱印と同様の形式になっています。本来は日蓮宗・法華宗の信徒にのみ授与し、他宗の人には御朱印を授与することになっていますが、その区別もかなり緩やかになっています。
しかし、江戸時代の御首題帳を見ると、日蓮宗の御朱印と御首題がまったく別のものであったことがわかります。
日蓮宗の御朱印は、他宗の御朱印と同じく六十六部の納経帳を起源とします。六十六部は法華経の奉納を名目としているためか日蓮宗との相性は悪くなかったようで、普通に納経の対応をしています。
一方、江戸時代の御首題帳を見ると、現代の御首題帳とはかなり違っていることがわかります。一般の寺院については、ページを細く区切ってお題目を書いているだけではなく、同じ寺院の名前が何度も出てきており、巡礼という特殊な場面で用いる納経帳と違い、日常の参拝時にも御首題をいただいていたことが伺えます。もちろん、遠方の本山格の寺院などに参拝するときも持参していたようで、途中立ち寄った寺院でも御首題をいただいたようです。
上の画像は江戸時代の御首題帳ですが、右から1番目と4番目が同じ上行寺(いすみ市万木)のものになっています。上総国夷隅郡(現在の千葉県いすみ市・夷隅郡)あたりの人のものだったようで、大半がいすみ市及びその周辺の寺院です。同じ寺院で何度ももらっていることから日常の参拝(年中行事の時などか?)で書いてもらっていたことがうかがえます。
また、本寺クラス以上の寺院では、お題目ではなく山号や寺号を書いて朱印を押すという納経帳によく似た形式になっています。ただし「奉納経」等の文言がないという大きな違いがあります。上の画像の右から2番目にある本法寺(長生郡白子町)がそうですが、本山クラスの寺院などでは1ページ全体を使っていたようです。
日蓮宗の御首題の起源についてはよくわかりませんが、信仰の証し、あるいは信徒の証しとしていただいたものであって、形式はもちろん、納経=現代の御朱印とはかなり意義・性質が違っていたと考えてよさそうです。
日蓮宗版の御朱印ともいえる現在のような御首題になったのは明治の頃だと推測しているのですが、明治期の御首題を確認していないため断言はできません。
昭和の初めには現在の形になっていました。
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