伊賀八幡宮

愛知県岡崎市伊賀町東郷中86 [Mapion|googlemap]

伊賀八幡宮

伊賀八幡宮(いがはちまんぐう)
正式名称:伊賀八幡宮
御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后/相殿:東照大権現
創建年代:文明2年(1470)
例祭:10月第1日曜日
社格等:旧県社
http://www.igahachimanguu.com/

【御由緒】
社伝によれば、康平年間(1058~65)源頼義が安倍貞任・宗任追討のために奥州へ向かう際、石清水八幡宮を領国である伊賀国に勧請し、天下泰平を祈願しました。これを文明2年(1470)松平氏第4代親忠が三河国額田郡下井田村に勧請して伊賀八幡宮と称し、村名も伊賀と改めたとされます。

以来、松平氏の氏神として尊崇されました。天文4年(1535)の森山崩れの後に織田信秀が侵攻した際や永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の際など、しばしば霊験を現したといいます。徳川家康も深く崇敬し、初陣に祈願して勝利を得たことを吉例として、大きな合戦に出陣する際には必ず参拝したそうです。

永禄9年(1566)第9代松平家康が徳川への復姓と三河守叙任の奉賽として社殿を整備。慶長7年(1602)には朱印地228石を寄進、同16年(1611)社殿を造営しました。

寛永年間(1624~44)徳川家光が東照大権現(徳川家康)を相殿に祀り、社領を540石に加増しました。これにより、将軍自ら祀ることを定めた東照宮の一つとなりました。また、徳川家康による本殿を増築する形で現在の権現造りの社殿を造営しました。

明治5年(1872)村社に列格、同29年(1896)郷社に昇格、さらに大正6年(1917)県社に昇格しました。また昭和8年(1933)には社殿などが国宝に指定されています(現在は重要文化財)。

※なお、伊賀の社号・地名については、『和名抄』にある額田郡位賀郷の名残と考えられているようで、現在の伊賀八幡宮の公式サイトには伊賀国からの勧請という記述はありません。

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伊賀八幡宮の御朱印

御朱印は授与所にて。

伊賀八幡宮の御朱印

中央の朱印は「伊賀八幡宮」、上に三つ葉葵の神紋、下に「徳川家氏神伊賀八幡宮」「参拝記念」の印。揮毫は「東照大権現」「伊賀八幡宮」。

小説 松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ (PHP文庫 し 18-4 大きな字)小説 松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ (PHP文庫 し 18-4 大きな字)

伊賀八幡宮の参拝記

参拝は平成23年8月。レンタサイクルで岡崎市内の寺社を巡拝しました。岡崎には松平家の氏神・伊賀八幡宮のほか、菩提寺の大樹寺、家康の産土神である六所神社など、徳川家康ゆかりの寺社が残っています。

岡崎城・龍城神社から能見神明宮を経て県道39号線を進んでいくと、伊賀八幡宮の朱の鳥居が見えてきました。

一の鳥居

一の鳥居。参道を進み、伊賀川を渡ると伊賀八幡宮の境内になります。

石鳥居

石鳥居(重要文化財)と蓮池。

神橋

蓮池と神橋(石橋)。寛永13年(1636)の造営の際、幕府作事方御大工・鈴木長次が木橋の工法を取り入れて造ったものだそうです。現在は渡ることができません。

随神門

随神門(重要文化財)。

東照大権現

東照大権現(徳川家康)の石像が安置されていました。

随神門をくぐると拝所があり、社殿の周囲には立ち入ることができなくなっています。

御供所

御供所(重要文化財)。

社殿の周囲にいくつかの摂末社があります。

境内社

上は牟久津社、御祭神は大奈持之命(大国様)で、伊賀八幡宮神域の守護。次は讃岐社で御祭神は大物主之命、金刀比羅宮の御分霊のようです。下は上総社で、御祭神は天日鷲命。ほかに天照大神を祀る伊勢社、仁徳天皇を祀る若宮社などがあります。

社殿

伊賀八幡宮の社殿。家康が造営した流造の本殿に拝殿・幣殿を増築したものだそうです。

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