数ある江戸=東京の巡礼の中でも、春秋の彼岸の六阿弥陀詣では正月の七福神詣でと並ぶ江戸の年中行事として定着していたようです。
今ではあまり注目されることのない六阿弥陀詣でですが、江戸時代の賑わいは『江戸名所図会』などにも描かれています。その賑わいは戦前まで続いていたようで、昭和13年の『武蔵野から大東京へ』(白石実三著)にはお彼岸の1シーズンで約5、6万人、中日だけでも2万人が巡拝するとあります。
そんな江戸六阿弥陀詣でがまだまだ盛んだった時代の御朱印。大正13年(1924)のものです。
東京の昔の御朱印は、明治神宮や靖国神社、浅草寺や泉岳寺などの観光地として人気の高いところのものは多いのですが、東京の住人が参拝するような寺社の御朱印はなかなかありません。そのほとんどが戦災で失われたためだろうと思われます。江戸六阿弥陀の御朱印もそういう貴重な御朱印の一つといえるでしょう。
一番西福寺から六番常光寺、そして木余りの性翁寺の7ヶ寺の印があります。元は横に長いタイプの集印帖だったようですが、1ページずつ切り離され、台紙に貼り付けられた状態で保管されていました。
第一番 三縁山 無量寿院 西福寺
東京府北豊島郡王子町大字豊島(東京都北区豊島二丁目)
六阿弥陀の起こりについて、足立郡側の二番恵明寺(元は延命寺)や木余りの性翁寺の伝では足立庄司・宮城宰相の娘が豊島清光のもとに嫁いだことになっていますが、豊島郡側の当寺の伝では豊島清光の娘が足立少輔某に嫁いだことになっています。つまり、加害者と被害者が逆になっているわけです。そのこと自体も興味深いのですが、どちらが正しいと決めつけることなく、一つの霊場として共存しているところに現代的な価値観との違いを感じます。
中央の宝印は火炎宝珠に阿弥陀三尊の種字(阿弥陀如来の「キリーク」、観世音菩薩の「サ」、勢至菩薩の「さく」)。右上は「第一番」、左下は判読できません。
第二番 宮城山 円明院 恵明寺
東京府南足立郡江北村大字沼田(東京都足立区江北二丁目)
本来は小台村の阿弥陀堂が第二番で、恵明寺の末寺・甘露山応身院延命寺が別当でした。『新編武蔵風土記稿』によれば、阿弥陀堂は沼田村と宮城村にはさまれた小台村の飛び地にあったため、一般には沼田の六阿弥陀として知られていたようです。六阿弥陀の第二番が恵明寺に遷された時期について、明治9年(1876)に延命寺が恵明寺に合併されたときとする資料と、大正年間、荒川放水路の開削工事に伴うとする資料があります。明治44年(1911)の『郊外探勝その日帰り』では恵明寺を第2番としているので、前者が正しいのではないかと思われます。
中央の宝印は火炎宝珠に阿弥陀如来の種字「キリーク」。右上は「関東第弐番」、左下は「府下南足立郡江北村下沼田 宮城山恵明寺」。
戦前は「関東六阿弥陀」という呼び方があったのでしょう。因みに一番西福寺の本堂前には「関東六阿弥陀元木第壹番霊場」という標石が建っています。
第三番 仏宝山 西光院 無量寺
東京府北豊島郡滝野川町大字西ヶ原(東京都北区西ヶ原一丁目)
御府内八十八ヶ所の第59番、本尊は「足止め不動」として知られる不動明王で、六阿弥陀第三番の阿弥陀如来は境内の阿弥陀堂に祀られています。元は長福寺と称しましたが、9代将軍家重の幼名・長福丸と同じであったため、無量寺と改められたと伝えられます。
中央の宝印は火炎宝珠に阿弥陀如来の種字「キリーク」。右上は「第三番」、左下は「無量寺印」。
第四番 宝珠山 地蔵院 与楽寺
東京府北豊島郡滝野川町大字田端(東京都北区田端一丁目)
御府内八十八ヶ所の第56番、本尊は弘法大師作と伝えられる地蔵菩薩で、寺に押し入った盗賊を押し返したという伝承から「賊除地蔵」の名で知られます。六阿弥陀第四番の阿弥陀如来は境内の阿弥陀堂に祀られています。
中央の宝印は火炎宝珠に阿弥陀三尊の種字(阿弥陀如来の「キリーク」、観世音菩薩の「サ」、勢至菩薩の「サク」)。右上は「第四番」、左下は「與楽寺印」。
第五番 宝王山 長福寿寺 常楽院
東京市下谷区上野広小路町(東京都台東区上野四丁目)
現在は調布市西つつじヶ丘に移転し、福増山と号しています。元は上野広小路、現在の上野四丁目のABABの辺りにあったようです。大正13年の時点で東京市内にあったのは当寺のみですが、東京市の拡大と当寺の移転により、逆に現在では唯一23区外にあるわけです。調布への移転時期については、関東大震災による被災後の昭和5年とする資料と、戦後とする資料がありますが、いずれにしても大正13年当時は上野広小路にあったと考えられます。ただし、関東大震災の翌年であり、まだ復興もままならない状態だったと思われます。なお、移転後も旧地にほど近い東天紅の敷地内に阿弥陀堂を設け、六阿弥陀詣での参拝者の便を図っています。
中央の宝印は火炎宝珠に梵字の「ア」。右上は蓮の花びらに「摂取不捨」、左下は「寶王山常樂院」。
梵字の「ア」は胎蔵界大日如来の種字ですが、あらゆる仏様をあらわすことができるとされていますので、使っておかしいわけではありません。しかし、常楽院の本尊が六阿弥陀の阿弥陀如来であることを考えれば、やはり阿弥陀如来の種字「キリーク」を使うべきところのように思われます。前年の関東大震災で宝印が失われ、別の印で代用していたという可能性も考えられます。
第六番 西帰山 常光寺
東京府南葛飾郡亀戸町四丁目(東京都江東区亀戸四丁目)
六阿弥陀詣でもっとも長丁場となるのが最後の6番常光寺までの道中です。天文13年(1544)曹洞宗に改宗したと伝えられます。境内には延宝7年(1679)の銘がある六阿弥陀道道標があり、江東区の文化財に指定されています。亀戸七福神の寿老人でもあります。
中央の宝印は八方崩しの書体で「常光禅寺」。右上の印は地蔵菩薩のようです。左下は「東京府下亀戸甼六阿弥陀常光寺」。「甼」は「町」の異体字です。
木余り 龍燈山 貞香院 性翁寺
東京府南足立郡江北村大字宮城(東京都足立区扇二丁目)
六阿弥陀を彫った霊木の余り木でもう一体の阿弥陀如来を彫り、足立庄司の屋敷の隣に建立した草案に安置したことに始まるとされます。境内には足立姫の墓所があり、江戸六阿弥陀発祥の霊場を称します。
中央の朱印は「佛法僧寶」の三宝印。右は丸に「木餘」、左の印は判読できません。丸に「木餘」の印は、性翁寺の瓦にも使われており、寺紋のような位置づけなのかもしれません。
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