高野山 刈萱堂 刈萱道心と石童丸

高野山 刈萱堂

高野山 刈萱堂

高野山の奥之院に向かう途中、道路の右側に鮮やかな朱色のお堂が建っています。刈萱道心と石童丸の物語で名高い刈萱堂(かるかやどう)です。

刈萱道心と石童丸の物語は「山椒大夫」や「小栗判官」、「しんとく丸」などとともに説教節の代表作とされるもので、かつての日本人であれば誰でも知っているぐらいの話でした。有名な話だけにヴァリエーションも多いのですが、高野山霊宝館のサイトを参考にまとめてみます。

加藤左衛門尉繁氏(重氏とも)は筑前国刈萱荘博多の若き領主で、家は富み栄え、優雅な生活をしていました。

繁氏には正妻の桂子御前と側室の千里御前という二人の夫人がいました。普段、二人は仲良く平静を装っていましたが、桂子は若く美しい千里を憎んでいました。

二人の夫人の影を見る加藤繁氏

二人の夫人の影を見る加藤左衛門尉繁氏
『刈萱物語』国立国会図書館蔵

ある夜、桂子と千里が囲碁をしていました。たまたまそれを繁氏が障子越しに見たところ、二人の髪が逆立ち、蛇となって絡み合って戦っているように見えたのでした。

そうこうするうちに桂子の千里に対する憎しみがあらわとなり、千里を殺害しようと企てるまでになりました。家来の計らいにより他人が身代わりとなり、千里は加藤の家を逃れることになったのでした。実はこの時、千里は子どもを身ごもっていたのですが、繁氏はそれを知りませんでした。

この事件は繁氏を深く後悔させ、人の世の無常を強く感じさせました。そして、領地も妻子も捨てて出家し、高野山の安養寺円慶の弟子となって円空と名乗りました。この時、繁氏は21歳でした。

出家に関しては比叡山の叡空、または黒谷の法然の弟子となり、寂照坊等阿(等阿弥陀仏)と号したともいいます。法然の下で修行していましたが、妻子が尋ねて来て恩愛の情に引かれることを恐れ、女人禁制の高野山に登ったとされます。

以来、蓮華谷に萱の屋根の質素な庵を結んで一心に修行に励み、刈萱道心と呼ばれるようになりました。

さて、加藤家の屋敷を逃れた千里は、播磨国は太山寺の観海上人のもとに身を寄せました。そこで男児を出産し、石童丸と名付けました。

石童丸が大きくなった頃、高野山に刈萱道心という僧がいるという噂が聞こえてきました。その僧こそ繁氏に違いないと確信した千里は、石童丸をつれて高野山へと向かいました。

二人は高野山の麓、学文路へとたどり着いて宿を取りますが、主人から高野山は女人禁制で女性は入山することができないと聞かされます。そこで千里は高野山に入ることを断念し、石童丸に父の身体的特徴を教えて、独り高野山へと向かわせます。

慣れぬ山道を登って高野山へと入った石童丸は、あちこち訪ねて歩きますがなかなか会うことができません。そして奥之院の無明橋(御廟橋)に来たとき、花筒を持った僧侶に出遭い、「刈萱道心という型を探しています。ご存じありませんか」と尋ねました。

刈萱道心と石童丸

刈萱道心と石童丸
立川文庫『石童丸』国立国会図書館蔵

実は、その僧こそ刈萱道心その人でした。刈萱道心は石童丸の身の上を聞いて大変驚きましたが、俗世の縁を断ち切って出家した身であり、父と名乗ることはできません。「繁氏という人は去年の秋に亡くなった。ちょうどそこにあるのが、その墓である」と近くにある適当な墓を指し示しました。石童丸は墓の前で泣き崩れたのでした。

刈萱道心は石童丸に早く母のもとに帰るよう諭しました。仕方なく石童丸は高野山を下っていったのでした。

ところが学文路の宿に着いてみると、長旅で無理をしたためか、石童丸が高野山に登っている間に母の千里は急の病を発し、すでに亡くなっていました。

頼る身寄りを失った石童丸は、母を学文路に葬り、再び高野山へと登りました。そして、刈萱道心を尋ねて弟子となり、信照坊(または信生坊)道念と名乗りました。二人は30年以上、師弟として刈萱堂で修行をしました。しかし、刈萱道心は生涯親子であることを伝えなかったといいます。

その後、刈萱道心は信州の善光寺に向かい、草庵を結んで地蔵菩薩を彫り、建保2年(1214)に亡くなったと伝えられます。道念(石童丸)は刈萱道心が往生したことを悟って信濃に向かい、父にならって一刀三礼して地蔵菩薩を彫り上げ、この2体の地蔵は「親子地蔵」として今も信仰を集めています。

高野山 刈萱堂

刈萱堂は、刈萱道心と石童丸が30年にわたって修行した場所され、高野聖の一派である萱堂聖(かやどうひじり)の本拠地となりました。現在は高野山の山内子院・密厳院の仏堂となっています。

目次

刈萱堂の御朱印

刈萱堂の御朱印

刈萱堂の御朱印。中央の墨書は「地蔵尊」。中央の朱印は宝珠に地蔵菩薩の種字「カ」、右上の印は「刈萱石童丸古跡」、左下は「高野山刈萱堂」。

なお、刈萱堂の本坊・密厳院は興教大師覚鑁の御住坊としても知られています。

密厳院の御朱印

密厳院の御朱印。中央の墨書は「大日如来」。中央の朱印は宝珠に大日如来の種字「バン」、右上の印は「興教大師御住坊」、左下は「高野山密厳院」。

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密厳院・刈萱堂の概要

高野山 密厳院仏堂 刈萱堂(かるかやどう)
御本尊:地蔵菩薩(引導地蔵)
所在地:和歌山県伊都郡高野町高野山478(Mapiongooglemap
宗派:高野山真言宗

高野山 密厳院高野山 密厳院(みつごんいん)
御本尊:大日如来
創建年代:長承元年(1132)
開山:興教大師覚鑁
鎮座地:和歌山県伊都郡高野町高野山479(Mapiongooglemap
宗派等:高野山真言宗

密厳院は新義真言宗の開祖・興教大師覚鑁が住坊として建立しました。覚鑁は真言密教の立場から念仏(浄土)思想を包摂した「密厳浄土」思想を唱え、密教的浄土教を大成しました。

また高野山の退廃を憂い、復興のために力を尽くしました。長承元年(1132)鳥羽上皇の外護により道場としての「大伝法院」と住坊の「密厳院」を建立。同3年(1134)には大伝法院の座主と金剛峯寺の座主を兼務することとなりました。

高野山 密厳院

後に覚鑁上人と弟子たちは、反対派を避けて根香寺へ移りますが、密厳院で厳修錬磨、密厳仏国土に往詣されたことから密厳上人と称され、『密厳院発露懺悔文』は宗教者の自覚自戒を促す経文として、真言宗各派で広く唱えられています。

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