明治になって、日本の宗教は大変動を蒙ります。その最大のものは神仏分離です。日本の宗教は千年以上にわたって神仏習合という大きな枠組みの中にありましたが、それが強制的に解体されたわけです。
明治の神仏分離と六十六部の消滅
神仏分離を廃仏毀釈ということもありますが、政府が発したのは神仏判然令であって、要は神道の神社と仏教の寺院をはっきり分けるようにというものでした。これによって千年以上にわたって続いてきた神仏習合の伝統が否定されたのですが、一部の過激な人々によって廃仏が行われたわけです。
後にこの動きは修正されますが、仏教、特に神仏習合が進んでいた真言宗や天台宗が大きなダメージを受け、多くの神宮寺が廃されました。また、寺院が神社になるという例も少なからずありました。代表的なところでは多武峰寺→談山神社、松尾寺→金刀比羅宮などがあります。神奈川県の江島神社も江戸時代までは金亀山与願寺という真言宗の寺院でした。
御朱印関連では、明治4年(1871)に六十六部が政府によって禁止されました。
四国八十八ヶ所や西国三十三所を巡拝する人も激減したといいますが、この時代の納経帳も残ってはいますので、ダメージを受けつつも継続はしていたようです。ただ、四国八十八ヶ所では神社が札所から外れたほか、少なからぬ札所が廃寺となり、別の寺院が札所を引き継いだり、一つの寺院が複数の札所を兼ねるなど混乱が続きました。
納経帳・順拝帳の変化
神仏分離に伴い、神社のみ、寺院のみという納経帳・順拝帳が登場します。今まで見た限りでは、明治期は神社と寺院が混在する順拝帳のほうが珍しく、西国の納経帳に熊野三山の印がある、四国の納経帳に旧札所の神社があるといった程度です。ただし、明治期の巡拝帳は、神社のみのもの以外は西国・坂東・秩父・四国といった霊場巡拝の納経帳がほとんどなので、霊場巡拝のものではない納経帳には神仏混在のものがあるのかもしれません。
形式面では、寺院の納経において「奉納経」「奉納」など納経を示す文言が、徐々に参拝を示す「奉拝」に変わっていきます。早い例では幕末に「奉拝」「奉拝礼」と書いている例がありますが(手許にある資料でもっとも早い例は文政8年の津照寺・円明寺ですが、その後の納経帳では奉納経等になっており、例外的なものと言えます)、明治から大正にかけて増えていき、昭和になると四国八十八ヶ所以外ではほぼ主流となります。
「奉納経」から「奉拝」への変化は、近代合理主義的な価値観から、納経(写経の奉納)を伴わないのに「奉納経」と書くことに疑問を感じる風潮が生じたためではないかと考えられます。
なお、「奉拝」は「奉納経」に代わって使用されるようになったため、当初は寺院のみで神社の御朱印には使われていませんでした。戦前でも神社の御朱印に「奉拝」と書いている例はありますが、だいたい集印帳の所有者が自分で書いたもので、神社側で書いたものはまず見られません。「奉参詣」とある一番上の画像(熊野速玉大社のもの)は過渡期のものとして非常に珍しいもので、神仏習合の代表格であった熊野三山の試行錯誤の様子がうかがえます。
はがき・絵はがきへの押印
また、現代では考えられないことですが、明治から大正にかけて、はがきや絵はがきに御朱印を押している例が散見されます。当時は参拝記念として割と気軽に押していたのではないかと推測されます。
明治4年(1871)旅行が自由化され、巡礼ではない純粋な観光旅行が登場しました(江戸時代は寺社参詣以外に娯楽を目的とした旅行は許されていませんでした)。巡礼を目的をしない旅行者は納経帳を持参することはなかったでしょうが、神社仏閣に参拝すれば記念に印をいただくという習慣は強固に根付いていたと思われます。そこで、ちょうど手頃だったのがはがき・絵はがき押印するようになったのではないでしょうか。上の画像の官製はがきのように実際に投かんしたものもありますが、記念としてそのまま持ち帰ったものが多かったようです(下の2枚の絵はがきは未使用)。
実例はあまり残っていませんが、手許の資料に明治39年頃の御朱印を押したはがき・絵はがきを集めたはがきホルダーがあり、当時はかなり気軽に押印していた様子がうかがえます。絵葉書の押印は大正末から昭和の初めころまで行われていたようです。
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