古今御朱印覚え書

御朱印に関する考察、寺社参拝、拝受した御朱印、昔の御朱印・納経帳などについてのメモ

浄土真宗と御朱印(1)

      2016/02/16

浄土真宗は御朱印を授与しないという常識について

東本願寺(東京都台東区)の御朱印

東本願寺(東京都台東区)
浄土真宗東本願寺派本山

御朱印収集、とくに寺院の御朱印をいただく人にとっては、「浄土真宗の寺院は御朱印を授与しない」というのは常識のようなものではないかと思います。

実際、浄土真宗本願寺派や真宗大谷派は御朱印をしないことを宗派の方針にしているようで、本願寺派の本山で世界遺産にも登録されている西本願寺や大谷派の本山で正式には「真宗本廟」と称する東本願寺では御朱印の授与はしていません。中外日報によれば、今秋、浄土真宗では報恩講の推奨のため、スタンプラリーを催すそうですが、教義上、宗教行為としての御朱印には否定的だからなのだそうです。

そのため、御朱印を授与しないというのが浄土真宗の伝統であり、本来の姿だと思い込んでいる人も少なくないのではないでしょうか。

しかし、私は「浄土真宗の寺院は御朱印を授与しない」という言い方は不正確であり、かつ極めて不適切だと考えます。また、御朱印の歴史を調べてみると、御朱印を授与しないというのは浄土真宗の伝統でもなんでもなく、第二次大戦後の話だということがわかります。

(※追記:読者の方からいただいた情報では、東本願寺の場合、昭和62年の御朱印が確認されているそうです。つまり、御朱印の授与をやめたのはせいぜいここ30年ほどの話で、昭和末から平成以降のことのようです。)

ということで、浄土真宗と御朱印について考察してみたいと思います。

まず、「浄土真宗の寺院は御朱印を授与しない」という言い方が不正確だということから。

浄土真宗でも御朱印を授与する寺院がある

「不正確である」という理由は簡単で、浄土真宗でも御朱印を授与する寺院があるためです。まあ、このこと自体は結構知られているので、何をいまさらと言われるのではないかと思いますが、やはりきちんと確認しておきたいと思います。

積極的に真宗寺院の御朱印を集めているわけではないので、あまり所有はしていないのですが、例えば東京では親鸞聖人手植えとされる大銀杏でも知られる麻布の善福寺(本願寺派)や二十四輩第一番の坂東報恩寺などで御朱印をいただくことができます。

善福寺(東京都港区)の御朱印

麻布山善福寺(東京都港区)
浄土真宗本願寺派

坂東報恩寺(東京都台東区)の御朱印

高龍山坂東報恩寺(東京都台東区)
真宗大谷派

飛騨高山にある大谷派の高山別院では、書置きの御朱印をいただきました。

高山別院(岐阜県高山市)の御朱印

高山別院照蓮寺(岐阜県高山市)
真宗大谷派

まあ、大半の真宗寺院が御朱印を授与していない中で、御朱印を授与する真宗寺院は例外的な存在であり、大勢から見て「授与しない」という言い方をしても間違いとはいえない、ということは可能でしょう。

しかし、考えてみていただきたい。

他宗派でも、一般の回向寺院(いわゆる檀家寺)の大半は御朱印を授与していないと思います。何かの霊場に参加しているとか、特別な由緒や観光客が来るような理由がない限り、御朱印は対応していないというのが普通でしょう。それどころか、忘れられた霊場などでは、札所寺院でも御朱印の対応をしていないという例も見られるようです。

そういうことを考えれば、本願寺派や大谷派として御朱印をしないという方針があるとか、西本願寺や東本願寺(真宗本廟)など有名観光寺院でも御朱印を授与していないという側面はあるとはいえ、一般寺院の大半が御朱印対応をしないことをもって「御朱印をしない」と言い切れるほどではないと思うわけです。御朱印についての話を全く聞かない日蓮正宗などと同列に論じることはできません。

とはいえ、これは重箱の隅をつつくような話であり、それほど重要というわけではありません。本当に重要なのは、「浄土真宗は御朱印をしない」という言い方は「極めて不適切」と考える理由のほうです。

ということで、次回は「極めて不適切」である理由について述べたいと思います。

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Comment

  1. 伊藤 国康 より:

    我が家は真宗本願寺です。しかし教義が少し気に入りません 自分の願いがある時仏壇に手を合わせて意味がないと教えていますね。確かにそのとうりです。しかし古来雨乞いや又戦勝祈願、合格祈願 病気平癒や あらゆるところで祈願という行為は、日本人にとってはかかせない
    行事 そして文化でありその為に神社があり他宗でも祈願はみとめています。家族が重篤 な病気の時仏壇の阿弥陀様に平癒祈願をしても意味がないという事ですね。しかし他宗 そうではないですね。私は心が弱いです 子供は癌の終末で回復の見込みは100パーセントないです
    この心の癒しは、神仏に祈るしかないでしょう。真宗門徒としては
    どう心の整理をすればいいのか、毎日悲しみに暮れてます。

    • こまいぬ より:

      伊藤 様

      お子様のこと、さぞご心痛のことと思います。

      真宗は祈りを認めないということについてですが、私も同じように思います。現代の真宗は宗教ではなくイデオロギーになってしまっているのではないでしょうか。

      人間というのは祈る生き物です。人間以外の動物は祈りません。真宗の僧侶が言うように、祈らないことに価値があるとは思えません。むしろ苦しいとき、悲しいときに祈るからこそ、信仰が深まるのだと思います。

      覚りを得た人なら祈る必要もないかもしれませんが、われわれは凡愚の弱い人間です。「信じてもいない神に祈る」という表現がありますが、祈りたくなるのは人間の本性でしょう。

      そもそも親鸞聖人がいらっしゃったら、伊藤さんを目の前にして「祈ってはダメだ」とか「ムダだ」という言い方をするでしょうか。

      阿弥陀様は冷たく厳格な教師ではなく、慈悲深い仏様です。伊藤さんがお子様のことを祈ったからといって、弥陀の本願を疑ったと見捨てるはずがありません。むしろそういう弱い心を持った伊藤さんを憐れみ、慈悲を垂れてくださるのが「摂取不捨」ということであり、弥陀の本願・念仏の功徳ということではないでしょうか。

      「祈ってはいけない」というイデオロギーが、門徒と阿弥陀様の間を遠ざけているように思います。

      お子さんを救ってほしいという率直な気持ち、辛く苦しい思いを阿弥陀様に受け取っていただくのが祈りであり信仰であって、「祈りは必要ない」というのは、それこそ「善人なおもて往生を遂ぐ」の善人になっているのではないでしょうか。

      阿弥陀様は、伊藤さんの気持ちをちゃんと受け取ってくださると思いますし、親鸞聖人もそれをとがめたりはしないと思います。

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