西教寺 天台真盛宗総本山

滋賀県大津市坂本五丁目13-1(Mapion/googlemap)

西教寺本堂

戒光山 西教寺(さいきょうじ)
正式名称:戒光山 兼法勝西教寺/大窪山 智善院 西教寺
御本尊:阿弥陀如来
創建年代:伝・推古天皇の御代
開基:伝・聖徳太子
宗派等:天台真盛宗総本山
http://www.saikyoji.org/

末寺四百余ヶ寺を擁する天台真盛宗の総本山。比叡山の東山麓に位置します。

寺伝によれば、聖徳太子が師である高麗の僧・慧慈、慧聡のために建立したとされます。また『真盛上人往生伝記』によれば、比叡山中興の祖・良源が横川の飯室谷に近い当地に草庵を結んだことに始まり、その弟子である恵心僧都源信が伽藍を整備したとします。

正中2年(1325)円観(慧鎮)上人が後醍醐天皇の勅許を得て再興しました。

円観上人は円頓戒を宣揚し、歴代天皇をはじめ皇室・貴族・武家の帰依を受け、白河天皇の御願寺である六勝寺の随一・法勝寺の住持に任じられています。以来、西教寺は法勝寺末となり、黒谷流円頓戒の四箇戒場の一に数えられるようになりました。

西教寺の発展は文明18年(1486)慈摂大師真盛が入寺したことによります。

真盛上人は嘉吉3年(1443)伊勢国一志郡に生まれました。14歳で出家、19歳で伊勢大神のお告げを受け、比叡山に登ります。慶秀和尚に師事し、約20年間比叡山に籠もって天台教学を究めましたが、文明14年(1482)母の死に逢って世の無常を感じ、翌15年(1483)黒谷青龍寺に隠棲し、日課6万遍の称名念仏を修めました。同17年(1485)伝教大師より源信の『往生要集』を授かる夢を見てこれに傾倒し、「無欲清浄 専勤念仏(戒律の厳守と称名念仏の励行)」という戒称二門の思想を確立します。

翌18年(1486)招請を受けて西教寺に入り、寺の再興に努めるとともに、皇室・将軍から武士・庶民に至る幅広い教化を行いました。以来、西教寺は戒称二門・不断念仏の根本道場として発展しました。

元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちに巻き込まれて一山焼失しますが、天正2年(1574)本堂仮殿が建立されました。復興には坂本城主となった明智光秀が積極的に援助し、陣屋・城門・梵鐘を寄進して大本坊・総門・鐘楼を再建させています。光秀は当寺を菩提寺としたようで、境内には光秀を初めとする明智一族の墓所があります。

この頃、西教寺の本寺であった京都の法勝寺は度重なる火災や戦乱で荒廃していました。その法脈が絶えることを惜しんだ後陽成天皇は法灯を西教寺に相承させるために綸旨を下し、法勝寺流の戒場を兼併することとなりました。また、法勝寺に伝わる薬師如来像や聖教・法具類も西教寺に移されました。「兼法勝西教寺」の正式名称はこれによります。

江戸時代は天台宗の山門執行代の管理下に置かれ、天台律宗と称しましたが、明治11年(1878)別派独立が認められて天台宗真盛派となりました。昭和16年(1941)天台宗三派(山門派・寺門派・真盛派)が合同しましたが、同21年(1946)天台真盛宗として独立、その総本山となりました。

西教寺の御朱印

御朱印は寺務所にていただきました。

西教寺の御朱印

揮毫は「不断念仏」。中央の朱印は「佛法僧寶」の三宝印。右上の印は「聖徳太子草創之道場」、左下は「総本山西教寺」。

明智光秀―正統を護った武将明智光秀―正統を護った武将

西教寺の参拝記

日吉大社から北へ1kmほど行くと西教寺の門前に出ます。途中は比叡山麓の小高い道で、東を望むと琵琶湖の対岸、近江富士と呼ばれる三上山も見ることができました。

西教寺総門

西教寺の総門。明智光秀が坂本城の城門を移築したものと伝えられます。老朽化のため、昭和59年(1984)に改修されました。

 

西教寺参道と勅使門

総門をくぐると参道の両側に塔頭が並んでいます。正面には勅使門があります。

宗祖大師殿

 

宗祖大師殿。明治11年(1878)の別派独立に伴って建立されたそうです。こちらでも御朱印がいただけるようですが、帰宅後に気づいたため残念ながら未拝受。唐門は重要文化財。

西教寺客殿

客殿、重要文化財。

明智光秀と一族の墓

明智光秀とその一族の墓。西教寺では毎年6月14日に光秀忌を営んでいるそうです。

西教寺名号石

名号石。真盛上人の六字名号が彫られています。

萬日供養塔

萬日供養塔。真盛上人は文明18年(1486)西教寺に入られて不断念仏の道場とし、弥勒仏が下生される56億7千万年後まで不断に念仏を相続するという誓願を立てられました。上人が遷化されて1万日(27年4ヶ月)ごとに萬日法会を厳修し、その記念に供養塔を建てるのだそうです。一番新しいのは十八萬日のもののようです。

西教寺護猿

本堂脇の掲示に護猿(まもりざる)の絵と由来がありました。

明応2年(1493)坂本で徳政一揆が起こったとき、その首謀者が真盛上人だと誤解した比叡山の僧兵が西教寺に押し入りました。ところが境内には人影がなく、本堂から念仏を唱えるときに叩く鉦の音だけが聞こえてくるだけでした。僧兵が本堂に駆け込むと、手の白い猿が一匹、上人の身代わりとなって鉦を叩いていました。

猿といえば比叡山の守護神である山王権現(日吉大社)のお使いです。僧兵たちは上人の不断念仏の教化が猿にまで及んでいることに感じ入り、そのまま立ち去ったと伝えられます。

以来、あらゆる災難から守る「護猿(まもりざる)」として崇められているそうですが、これを「ござる」と読み、縁がござる、福がござる、あるいは客ござるの「五猿」として商売繁盛のお守りとされているそうです。

この絵の猿は可愛らしいのですが、本堂内に安置された身代わり猿の像はなかなか迫力がありました。

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