「御朱印」という名称について(3)

大正期に「御朱印」という言葉が定着していなかったことをうかがわせる資料として、大正13年に朝日新聞社から出版された『御成婚奉祝 神社山陵参拝記』があります。

神社山陵参拝記

『神社山陵参拝記』
(国会図書館蔵)

これは、皇太子(昭和天皇)御成婚を記念して朝日新聞社が東京本社と大阪本社の記者各4名を選抜し、それぞれ白班・紅班の2班に分けて、全国の主要な神社及び天皇陵を巡拝するという企画を行い、その道中記をまとめたものです。

東京本社の2班4人は東日本の神社22ヶ所を、大阪本社の2班4名は西日本の神社37ヶ所と天皇陵2ヶ所を参拝し、証として携行した「参拝帳」に神社・山陵の印をいただいています。その印を示す言葉として用いられているのは「印顆」「社印」「御印」「御判」などで、「朱印」「御朱印」という言葉は見られません。大正13年の時点では、一部で「御朱印」という言葉が使われていた可能性までは排除できないものの、一般的には使われていなかったと考えて間違いないでしょう。

「御朱印」という言葉が使われ始めた時期を推定する資料になりうるのが、戦前の集印帖のタイトルです。大正の半ばに折り本式の「集印帖」(現在の一般的な朱印帳の形式)が出現し、以後、急速に普及していきます。そのタイトルに「御朱印」または「朱印」とあれば、その年代までさかのぼることが確認できるはずです。

ところが、それらの多くは「集印」「蒐印」で(どちらも読み方は「しゅういん」)、「朱印」という言葉はなかなか見られません(他には「参拝帖」なども見られます)。

昭和11年集印帳

昭和11年『集印帳』

仏閣集印帖

昭和2年『仏閣集印帖』

昭和初期のものには「御印帖」「芳印帖」の表記も見られます。まだ、統一された呼び方がなかったことを伺わせます

神社御印帖

昭和2年『神社御印帖』

神社芳印帖

昭和2年『神社芳印帖』

以前、ネットオークションで「御朱印」らしきタイトルの集印帖を見かけたのですが、入手していないため確認できません。今のところ、私の手許にある資料では、昭和8年から12年頃に使用されたと見られる集印帖に自筆で「神社御手印」とあり、「御朱印」の間違いか当て字ではないかと思われるのが唯一の例です。

昭和8年の集印帖

しかし、間違いか当て字というところが興味深いところで、この時期に「御朱印」という言葉が一般化し始めたということを暗示しているように思うのです。

「手印」といえば手形(掌に朱肉や墨を付けて押したもの)、もしくは密教の印契のことです。文字の与える印象からも、いわゆる御朱印にわざわざ使う言葉でしょう。つまり、「ごしゅいん(御手印)」という言葉自体は、自分で考えた言葉ではないだろうと思うわけです。

これを書いた持ち主は、「ごしゅいん」という言葉は聞いていたが、「御朱印」と書くことは知らなかったので(「御」と「印」はわかりやすい)、いろいろ考えて「手」の字を当てたと考えるのが妥当ではないでしょうか。もちろん「朱」と「手」を書き間違えたという可能性も否定できませんが、それなら紙を貼るなりして修正するはずです。とすれば、この時期に「ごしゅいん(御朱印)」という言葉が、耳にはするが、必ずしも字はわからないという程度に広がり始めていたのではないか、と考えています。

なお、『神社山陵参拝記』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969665

※2015.10.25.追記

昭和10年(1935)11月に野ばら社から昭和11年版児童年鑑・学友年鑑・昭和年鑑の共通別冊として発行された『集印帖』の中に「著名社寺御朱印集」がありました。

野ばら社集印帖表紙

野ばら社集印帖神社御朱印

昭和10年の時点で「御朱印」が一般的に使われるようになっていたことは間違いなさそうです。

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