粟田神社

京都市東山区粟田口鍛冶町1 [Mapion|googlemap]

粟田神社

粟田神社(あわたじんじゃ)
正式名称:粟田神社
旧称:感神院新宮 粟田天王宮
御祭神:建速素盞嗚尊(牛頭天王) 大己貴命 /左座:八大王子命(八嶋士奴美神・五十猛神・大屋彦神・大屋媛神・抓津媛神・須勢理媛神・大歳神・宇迦之御魂神)/右座:奇稲田比売命 神大市比売命 佐須良比売命
創建年代:貞観18年(876)
例祭:10月15日
社格等:旧府社
http://awatajinja.jp/

【御由緒】
江戸時代以前は感神院新宮、粟田天王宮などと称していました。感神院とは祇園社(八坂神社)のことです。

京都七口の一つ、粟田口に鎮座することから、古来、旅立ち守護・旅行安全の神として信仰を集めています。

社伝によれば、貞観18年(876)清和天皇に神祇官と陰陽寮が「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と奏上しました。そこで天皇は勅を発し、全国の神々に奉幣して国家と民の安全を祈願させました。

この時、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(八坂神社)に遣わされ、七日七夜丹精を込めて祈願しました。その満願の夜、興世の夢枕に一人の老翁が立ち、「我は大己貴神である。祇園の東北に清き処がある。そこは牛頭天王に縁の地である。そこに我を祀れば、必ず国家と民は安全である」と告げました。

興世はこのことを朝廷に奏上し、勅命により粟田口の現在地に社を建立、御神霊を祀りました。これが当社の創建と伝えられています。

また、一説には孝昭天皇の後裔で当地を本拠地とした粟田臣が氏神として創建したともいいます。

永久年間(1113~18)東陽坊忠尋(第46世天台座主)によって再建されました。応仁の乱で焼失しましたが、室町幕府の第10代将軍・足利義尹の産土神であることから、明応9年(1500)幕府は吉田兼倶に命じて社殿を再興させました。

江戸時代は粟田口村の鎮守とされました。当時の別当は歓喜院で、初代別当の湛海宝山律師は歓喜天に対する修法に優れ、当社の別当職を辞した後、真言律宗大本山の宝山寺(生駒聖天)を再興しています。湛海律師が刻んだ聖天像が残されており、現在は本殿内に安置されているそうです。

明治の神仏分離により粟田神社と改称、歓喜院は廃寺となりました。明治6年(1873)村社に列格、同14年(1881)郷社、さらに昭和14年(1939)府社に昇格。

10月に行われる例祭は「粟田祭」として知られ、室町時代、祇園祭が斎行できなかったときには、この祭をもって代わりとしたといわれているそうです。かつては旧暦9月15日に行われていましたが、現在では10月体育の日の前日に夜渡り神事、体育の日に神幸祭、10月15日に例大祭が行われています。

粟田神社の御朱印

御朱印は授与所にていただきました。

粟田神社の御朱印

今回いただいた粟田神社の御朱印。中央の朱印は「粟田神社」、右上は「感神院新宮」。左上の印は八方崩しの書体で判読しづらいのですが、「粟田天王宮」だと思われます。

粟田神社の御朱印

前回の参拝でいただいた御朱印。

鍛冶神社の御朱印

末社の鍛冶神社の御朱印もいただけます。上の印は「鍛冶神社」で、枠は刀の鍔を象っているようです。下は刀身と「天目一箇神・小鍛治宗近命・藤四郎吉光命」「洛東粟田口」。近年の刀剣ブームで要望が多く、御朱印を作ったとのことでした。

刀剣聖地めぐり刀剣聖地めぐり

粟田神社の参拝記

年末、四国へ帰省する途中に京都へ立ち寄りました。八坂神社で新年限定の恵方(歳徳神)の御朱印をいただくことができると聞いたためです。京都駅を出ると雪が舞っていました。

 

間際になって京都に立ち寄ることを決めたため、その後の予定はほぼ未定。そこで、歩いて行くことができる粟田神社に参拝することにしました。

粟田神社には一度参拝していましたが、ちょうどその時、拝殿の屋根の葺き替え工事が行われていたため、いずれ再度の参拝をしたいと考えていました。また、近年の刀剣ブームで末社・鍛冶神社の御朱印もいただけるようになったということも聞いていたので、ちょうどいい機会だと思ったわけです。

刀剣関係の神社は京都に幾つかありますが、その中でも特に刀剣女子の人気が高い神社の一つとのこと。前回、平成21年に参拝したときは地元の方以外の参拝者を見かけませんでしたが、今回は刀剣ファンらしい女性の参拝者が次々訪れていました。

一の鳥居

三条通沿いに建つ一の鳥居。

二の鳥居

二の鳥居。「感神院新宮」の額が掛かっています。八坂神社から10分余り歩いて、ここに着きました。

鍛冶神社

末社・鍛冶神社。二の鳥居をくぐってすぐ左側にある駐車場の片隅に鎮座しています。御祭神は鍛冶の神・天目一箇神と三条小鍛治宗近、粟田口藤四郎吉光。

古くから粟田口には刀工が居住し、三条小鍛治・粟田口派として知られていました。中でも名高いのが平安時代の三条宗近と鎌倉時代の粟田口吉光です。当社を参拝する刀剣女子にとっては御本社に劣らず大切なのだとか。

拝殿

拝殿。前回は屋根の葺き替え工事の最中でした。

本殿

本殿、実は前回参拝時の写真。お参りの人が途切れないため、後で写真を撮ろうと思っていたのですが、雪が降ってきたり、御朱印をいただいたりといううちに失念していました。

北向稲荷神社

摂社の北向稲荷神社、御祭神は雪丸稲荷他三柱。雪丸稲荷は、三条宗近が一条天皇の勅命で小狐丸を打った際、相鎚を打ったお稲荷さんといわれているそうです。

出世恵美須神社

摂社の出世恵比須神社。伝教大師作と伝えられる恵比須像をお祀りします。源義経が奥州に下向する際、源家再興を祈願したと伝えられ、元は三条蹴上の夷谷に祀られていたそうです。その後、夷町の金蔵寺に祀られていましたが、明治に粟田神社境内に遷され、摂社となりました。

多賀神社・朝日天満宮

末社・多賀社と朝日天満宮。朝日天満宮は京洛二十五社の一。

大神宮

末社・大神宮。元は青蓮院の坊官・鳥居小路家の邸内社でした。鳥居小路家の祖・高階師尚は伊勢の斎宮と在原業平の密通によりできた子とされ、伊勢の大神の怒りに触れて、その子孫は伊勢に参宮することができませんでした。そこで邸内に大神宮を奉斎し、参詣していたそうです。現在は両脇に八幡神と春日神を祀っているとのこと。三社託宣の形式です。

吉兵衛神社・太郎兵衛神社

末社の吉兵衛神社(上)と太郎兵衛神社(下)。それぞれ青蓮院の御門の東と西に祀られた土地の守り神です。

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