四国68番 琴弾八幡宮・神恵院〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国68番 琴弾八幡宮七宝山 観音寺 神恵院
讃岐国豊田郡寺家分(香川県観音寺市八幡町)

四国68番琴弾八幡宮の納経

四国29日目の4月8日は68番琴弾八幡宮から75番善通寺まで。太郎助の四国巡拝最終日ですが、札所が集中している地域なので、再度の参拝となる善通寺を含めて8ヶ所を巡っています。

現在、四国68番琴弾山神恵院と69番七宝山観音寺は一つの境内に二つの札所がある珍しい札所として知られていますが、江戸時代以前は隣接する琴弾八幡宮が68番札所でした。69番観音寺は琴弾八幡宮の神宮寺・別当寺です。つまり、当時も神社と別当寺がともに札所という四国八十八ヶ所では他に例のない札所だったわけです。

観音寺のかつての正式名称は「七宝山 神恵院 観音寺」で、納経の際、68番の別当としては院号の神恵院を、69番札所としては寺号の観音寺を使っていました。神恵院と観音寺という二つの寺があったわけではないようです。

社伝によれば、大宝3年(703)日証上人が琴弾山で修業していたところ、西の空が鳴動し、三昼夜にわたって黒雲が天を覆いました。一艘の船が浜辺に近づき、中から妙なる琴の音が聞こえてきました。不思議に思って訪ねた日証上人が「いかなる神人か」と尋ねたところ、「我は八幡大菩薩なり」と答え、その夜の内に海が竹林となり、砂浜が松林となる奇瑞を示しました。驚いた上人が童男童女を集めて船を琴弾山上に引き上げ、御神体に琴を添えてお祀りしたのが琴弾八幡宮の創祀で、同時に神宮寺として宝光院神宮寺(後の七宝山観音寺)を創建しました。

大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏・阿弥陀如来を描いて安置しました(現在の神恵院の本尊)。

朝廷や武将の崇敬篤く、源頼義は前九年の役に際して願文を納め、源義家は社殿を造営したと伝えられます。源義経は屋島の合戦の後、平家追討を祈願して木の鳥居と名馬・望月を奉納、源頼朝は1千貫文の社領を寄進しました。

明治の神仏分離により、本地堂に祀られていた阿弥陀如来像を観音寺の西金堂に遷し、琴弾山神恵院と称するようになりました。ただし、大正時代の納経帳でも七宝山神恵院とあるので、琴弾山の山号を用いるようになったのは昭和になってからではないかと思われます。

神恵院の納経

四国68番琴弾八幡宮の納経

順拝帳を見ると、墨書部分は版木押しで、右から順に

「奉納」
「琴弾八幡宮」
「讃州 七宝山」
「別当」「神恵院」
「酉四月八日」

中央に宝印はありません。右上の印は白抜きで「六十八番」、左下は「七寶山 観音寺」。次に見る69番観音寺と同じ印です。当時も現在と同じように観音寺で2ヶ所分の納経をしていたことがわかります。

八幡神と神仏習合 (講談社現代新書)八幡神と神仏習合 (講談社現代新書)

琴弾八幡宮・神恵院の概要

琴弾八幡宮(ことひきはちまんぐう)
現名称:琴弾八幡宮
御祭神:応神天皇、神功皇后、玉依姫命
創建年代:大宝3年(703)
鎮座地:讃岐国豊田郡寺家分(香川県観音寺市八幡町)
社格等:旧県社

七宝山 観音寺 神恵院(じんねいん)
現名称:琴弾山 神恵院
御本尊:阿弥陀如来
創建年代:大宝3年(703)
開基:日証上人
所在地:讃岐国豊田郡寺家分(香川県観音寺市八幡町)
宗派等:真言宗大覚寺派

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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