四国37番 五社大明神・岩本寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国37番 五社大明神藤井山 五智院 岩本寺
土佐国高岡郡仕出原村(高知県高岡郡四万十町仕出原)
土佐国高岡郡窪川村(高知県高岡郡四万十町茂串)

四国37番五社大明神の納経

江戸時代までの四国37番札所は現在の高岡神社です。寂本の『四国徧礼霊場記』には「仁井田五社」、太郎助の納経帳には「五社大明神」とあります。納経は窪川にある別当の岩本寺(現在の37番札所)で行いました。

37番札所も複雑な経緯をたどっており、資料を読み比べてみてもよくわからないところがあります。とりあえず諸資料から妥当と思われるところをまとめてみましょう。

高岡神社の社伝によれば、伊予の豪族・小千(越智)玉澄が仁井田郷に来住し、地主神・仁井の翁と協力して開拓しました。そして、越智氏の祖神を祀ったのが仁井田大明神(高岡神社)の創祀とされます。

天平年間(729~49)聖武天皇の勅により、行基菩薩が神宮寺として福円満寺を建立しました。さらに『仁王経』の「七難即滅、七福即生」を祈願し、天の七星を象って宝福寺・長福寺などの6ヶ寺を建立、合わせて七福寺と称しました。

天長3年(826、弘仁年間とも)弘法大師が来錫し、1社に祀られていた6柱の御祭神を5つの社に分祀し、それぞれ本地仏を祀りました。以来、神仏習合の霊場となり、仁井田五社、五社大明神と称するようになりました。また末寺5ヶ寺を建立し、先の7ヶ寺と合わせて仁井田十二福寺と総称したとされます。

享禄から天文の頃(1528~55)火災により福円満寺が廃寺となり、仁井田五社の別当であった金剛福寺の尊海法親王は宿坊として窪川に岩本坊を建立しました。しかし、これも天正年間(1573~92)兵火で焼失。その後、釈長が再興し、岩本寺と改めたと伝えられます。

ここまででも十分複雑なのですが、さらに明治以降は不明な点が少なくありません。

明治の神仏分離で仁井田五社は高岡神社となり、本地仏は岩本寺に遷されます。ところが、諸資料によれば岩本寺も明治4年(1871)廃寺となり、同22年(1889)に再興されたとあります。ただし、明治10年代の納経帳には岩本寺の名を見ることができます。

また、この間に愛媛県八幡浜の大黒屋吉蔵が衰微していた37番札所の本尊と印を買い取り、八幡浜に大黒山吉蔵寺を創建して37番札所を称しました。そのため、一時期は2つの札所が並立していたようです。大正7年(1918)に四国を巡拝した高群逸枝は吉蔵寺に宿泊しており、『娘巡礼記』にはその様子が触れられています。本尊と印が返還された時期についてはよくわかりません。

吉蔵寺についてはこちらが詳しいようです。
愛媛西方圏ブログ:幻の37番札所大黒山吉蔵寺

37番札所については、いずれ機会があればもう少し考察してみたいと思います。

五社大明神・岩本寺の納経

四国37番五社大明神の納経

『順拝帳』を見ると、墨書部分は右から順に、

「奉納」
「五社大明神」
「別当」「岩本寺」
「酉三月廿四日」

中央の朱印は火炎宝珠に五社の本地仏の種字が配されています。中央に中ノ宮・阿弥陀の来の種字「キリーク」、周囲に東大宮・不動明王の「カーン」、今大神・観世音菩薩の「サ」、今宮・薬師如来の「ベイ」、森ノ宮・地蔵菩薩の「カ」。

右上の印は「四国三十七番」、左下の印は判読できません。

娘巡礼記 (岩波文庫)娘巡礼記 (岩波文庫)

五社大明神・岩本寺の概要

五社大明神(ごしゃ だいみょうじん)
現名称:高岡神社
異称:仁井田五社、仁井田大明神
御祭神 東大宮:大日本根子彦太邇尊(孝霊天皇)/今大神宮:磯城細姫尊 /中ノ宮:大山祇尊、吉備津彦狭島尊 /今宮:伊豫二名州小千尊 /森ノ宮:伊豫天狭貫尊
創建年代:不詳
所在地:土佐国高岡郡仕出原村(高知県高岡郡四万十町仕出原)
社格等:旧県社

藤井山 五智院 岩本寺(いわもとじ)
現名称:藤井山 五智院 岩本寺
御本尊:不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩
創建年代:天平年間(729~49)
開山:弘法大師
所在地:土佐国高岡郡窪川村(高知県高岡郡四万十町茂串町)
宗派等:真言宗智山派

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